11月24日、有楽町朝日ホール11階スクエアにて、「映画と字幕のいい関係」をテーマにセミナー<映画の字幕翻訳を考える>が開催された。ゲストに字幕翻訳家の寺尾次郎さん、アテネ・フランセ文化センター制作室の赤松幸洋さんを迎え、司会は中国語の翻訳・通訳として活躍する樋口裕子さん。観客には馴染みのない字幕翻訳の裏側が明かされる貴重な機会とあって、会場には映画関係者を含めて多くの観客が訪れた。
まず樋口さんから、今回のセミナーが行われるきっかけについて説明が行われた。
映画祭で字幕翻訳について語るという機会はあまりないが、2009年10月の山形国際ドキュメンタリー映画祭では、映画研究者の阿部マーク・ノーネスさんによる字幕についての講義が行われた。この講義に刺激を受けた樋口さんからの提案で、今回のセミナー開催が決まったという。
次に赤松さんから、東京フィルメックス上映作品の字幕も担当するアテネ・フランセ制作室について説明が行われた。制作室では、字幕投影方式による字幕の制作及び現場での投射を行っている。赤松さんが担当するのは映画祭から映像素材と台本を受け取って翻訳者に渡し、出来上がった原稿を字幕として完成させる作業。
東京フィルメックスのラインナップ発表は9月。字幕制作に必要な素材は、早いものは9月初めには届き始める。だが、大体ひと月前に届けば良い方で「先週届いたものもあるし、映画祭が始まったいまでもまだ作業中のものもあります」と赤松さんは苦笑した。
寺尾さんは今回、ジャン=ピエール・メルヴィル特集の中の1本『この手紙を読むときは』の字幕翻訳を手掛けた。メルヴィル特集開催を知って、赤松さんに「是非やらせて欲しい」とメールを送ったそう。フランス映画の字幕翻訳家として映画ファンなら誰もがその名前を目にしたことのある寺尾さんだが、「翻訳に自信は持てない」と話す。
「翻訳には、絶対に誤訳が生じます。シェイクスピアの翻訳で知られる中野好夫がは「誤訳は畳の埃だ」と言っています。叩けば必ず出てくるものだ、と。ですから、僕は手掛けた作品のニュープリントが出来たりDVD化される時は必ず見直して、訂正することにしてます。といっても、それでもどこかは間違ってるんですよね。「翻訳は裏切りである」という言葉がある通り、例えば『男はつらいよ』をフランス人がフランス語に訳すと、思い違いは絶対あるんですよ。だから、和訳をあんまり叩かないでね、って(笑)」
樋口さんは今回、特別招待作品『春風沈酔の夜』(ロウ・イエ監督)の字幕を手掛けているが、どうしても分からない箇所があり苦労したという。ロウ監督が審査員として来日していたため、監督に直接尋ねることができたのは幸運だった、と話す。寺尾さんも、意味の掴めない台詞については監督やプロデューサーに問い合わせることにしている、と頷いた。
第10回東京フィルメックスでアテネ・フランセが字幕制作を担当した作品は「韓国映画ショーケース2009」を含め全部で30本ほど。映画祭で上映されるプリントはほとんどが返却されるため、字幕をプリントに直接焼き込むことは少ない。そのため、多くの映画祭で使用されているのはアテネ・フランセ制作室の堀三郎さんが開発した字幕投影システムで、映画が上映されているスクリーンに、プロジェクターで投影した字幕を重ねる方式。以前はスライド上映で一枚一枚投射していたが、このシステムではパソコンで打ち込まれた字幕を映写機に完全に同期させているという。
その他にも、字幕制作の作業工程に関して詳しい説明が行われ、参加者はメモを取りながら熱心に聞き入っていた。樋口さんは「翻訳者と制作者の二人三脚の作業の末に、字幕が出来上がる」と語り、両者の緊密な関係をうかがわせた。
ここで、このセミナーのきっかけとなった山形映画祭での講義についての話題に。
阿部マーク・ノーネスさんは佐藤真監督の『阿賀に生きる』『阿賀の記憶』の英語字幕翻訳を行っている。「翻訳者はもっと映画に踏み込むべき」というノーネスさんの主張に「過激だな、と思った」と樋口さん。
「『阿賀の記憶』の映像を見ながらのレクチャーだったのですが、新潟のお年寄りの方言で、私が聞いてもまったくわからない。字幕をつける際に、どのくらいの日本人がこの言葉を理解できるのか、という言語調査を行ったそうです。だから「分からない英語に訳す」という作業を佐藤監督と共同作業で行ったそうです。マークさん曰く「翻訳者はつじつまの合ってない話でも、分かり易くきれいな言葉にまとめてしまうが、それを敢えて行わない」と。それはアメリカでかなり批判されたそうです。ご自分で「暴力的字幕」とおっしゃっています」
ここで樋口さんから、山形国際ドキュメンタリー映画祭ディレクターの藤岡朝子さんが紹介された。藤岡さんは突然の呼び出しに戸惑いつつ、『阿賀』の英語字幕について説明してくれた。
「『阿賀に生きる』は、当時大学院生だったマークさんがほぼ初めて英語字幕を手掛けた作品です。作中で語られる言葉は強い新潟弁なので、監督と非常に細かく相談しながら字幕が作られたそうです。東京で公開された時は、日本人の観客に向けて標準語の字幕がついていました。『阿賀の記憶』は、前作の15年後、同じ場所で撮影された作品。その時には監督の考えも変化していて、標準語字幕をつけなかった。断片的に分かる単語でイマジネーションを膨らませながら見てほしい、と。英語字幕もその考えを受けて、分かるような翻訳にはしない、ということになったんです」
「監督の意向がはっきりしていて、議論しながら字幕が作れるというのは素晴らしいこと。しかし、そうでない場合は翻訳者としてどうしていいか、非常に迷うところです。どこまで「分からせる」ことを翻訳者として行うべきか…」と言う樋口さんに対し、寺尾さんは「100%を字幕にする、或いは吹き替えにすることは不可能」と応じた。「いまの方言のお話で思い出したのですが、2、30年前の字幕というのはアメリカ映画にしろヨーロッパ映画にしろ、田舎の場面だと大体が東北弁になってました(笑)。見てる僕たちとしても全然気にせず、田舎だから、と納得していた。それが変わってきたのは、やっぱり不自然だ、とみんなが気づいたからでしょう。例えばアメリカ南部の人の話す分かりにくい英語に分かりにくい字幕を付けるか、と言われたら、僕は付けないと思います。どんな地方の言葉でも標準語の字幕をつける、というのが今の全体的なスタンスだと思います」
寺尾さんは、劇場公開作品と映画祭の上映作品では字幕翻訳のスタンスを変えているという。「作品中で異なる言語が出てきた場合、よくやるのは()で囲む、というやり方ですね。そうすると、映画祭にいらっしゃる観客の方だとすぐに分かると思います。でも、劇場で全国公開されるような作品だと、配給の方で区別しなくていい、と言われる。配給側にとっては、字幕は最大公約数。特に何万人も見るようなものだと「誰でも分かる」ことが重要になる。映画祭では、字幕の文字数も多くなるし、多少分かりにくい単語も入れます」
差別語の扱いも、字幕翻訳者を悩ませる問題。寺尾さんは「差別用語についてはもちろん配慮も必要ですが、それとは別に、翻訳者自らが言葉をなくしていくことはないと思うんです」と述べ、樋口さんも「翻訳者は自分を信じて訳していくべきですね」と頷いた。
最後に、会場との質疑応答の時間が設けられ、字幕中の固有名詞の扱いについての質問が投げかけられた。例えばブランドの名前。ブランド名が話されている場合でも「高級な○○」などと訳されていることがあるが、このような配慮が必要なのか、という問いに、寺尾さんが答えた。「清水俊二さんが訳された1950年代の映画にラザニアが出てくるんですが、50年代のこととあって日本の観客はみんなラザニアを知らない。それで「スパゲティ」に変えたんです。それは素晴らしいことだな、と思うんです。字幕に対して批判を行っている人というのは、ある程度その言語の分かる人たちです。でも、字幕はその言語を知らない人のためのもの。先ほども述べた通り、最大公約数なんです。字数の制限もある。カタカナは文字数をとってしまうし(笑)「○○と言っているのに訳されていない」と言われても、仕方のない面はあるんです」
赤松さんも「文字数の問題が大きいですよね。早口でたくさん喋ってるとその場面にすべて入れることは難しい。ただ、その国の文化がよく表されているような単語の場合は削らないようにしていますよね」と応じ、限られたスペースの中でいかに映画の内容を伝えるか、苦労をしのばせた。
会場からは多くの手が上がり、来場者の関心の高さをうかがわせたが、ここで残念ながら時間となり一時間半のセミナーは終了。樋口さんが「また来年も、フィルメックスでこういった機会を頂ければと思っています」と締めくくると、会場は大きな拍手に包まれた。
(取材・文:花房佳代、写真:米村智絵)
投稿者 FILMeX : 2009年11月24日 21:00