11/5『すべては大丈夫』Q&A

11月5日(土)、クロージング作品の『すべては大丈夫』が有楽町朝日ホールで上映され、コンペティション部門の審査委員長も務めたリティ・パン監督が上映後の質疑応答に登壇した。自ら手作りした粘土人形と様々な映像を組み合わせて、動物が人間を支配するディストピアを描くシネマエッセイ。作品に込めた寓意や製作の経緯をパン監督が縦横に語った。

粘土人形を駆使した作品は、祖国カンボジアのクメール・ルージュによる圧政の記憶を描いた『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013年)以来。フランス在住のパン監督は、コロナ禍のロックダウン中にこの企画を思い付き、書斎をスタジオ代わりに製作に取り組んだという。「最初のロックダウンの時、空っぽになった街に動物が入り込んでいるのを目撃し、クメール・ルージュがカンボジアの人々を追い出した時のことを思い出した」とパン監督。感染対策で始まったはずの規制や検査が、次第に本来の目的を超えて人々をコントロールしているようにも感じ、全体主義の台頭をめぐる寓話につながった。

豚が率いる動物の一群が人間社会を征服する。自由の女神像が倒され、代わりにスマートフォンを掲げた豚の像が建立される。「豚をリーダーにした理由はふたつある」とパン監督。「まず、ロックダウン当時の米国大統領だったドナルド・トランプのことを考えました。四六時中流れてくるトランプのツイートは、まるで世界をコントロールしようとしているかのように思えました」。一方で、豚は賢い動物で、ヒトに近い面もあるという。「豚と人間には互換性があるんです。私たちが皮膚移植する際も豚の皮膚を使う。失敗に終わったが、数カ月前には豚から人間への心臓移植手術もあった。いずれは実用可能になるかもしれません」

では、動物たちが自分を人間に似せようとしたらどうなるか。「人間のような5本指を持ちたいと願い、人間の行動を模倣した動物たちは、やがて全体主義へと行きつく。そのプロセスを寓話として描いたのが今回の作品です」とパン監督。「新型コロナウイルスはどこから来たのかを考えてみて下さい。人間が森を破壊し、そこに住んでいた動物たちが否応なしに街に出て来る。そしてウイルスが広まり、今度は人間たちがロックダウンで閉じ込められる。そういう現象を映画にしようと思ったのです」

動物が支配する社会はあちこちにスクリーンが設置され、過去の戦争や虐殺や独裁者の映像が流れる。そこに警句的なテキストの朗読が重なる。「こんなキツい映画に最後までお付き合いいただき感謝します。こういう映画は全てを理解する必要はないんです。例えばワンシークエンスだけでも何か気になったことを考えて下さったら本当にうれしい」

客席からは、多彩なアーカイブ映像の使い方について質問があった。「建物の管理人が監視カメラを眺める姿をイメージしました。人工衛星、スマホ、顔認証技術。様々なものが我々を監視し、コントロールしている。そんな全体主義的状況を映画にしました」とパン監督。一方で、ロックダウン期間に見直した映画史上の作品群のイメージも生かされているという。「ジガ・ヴェルトフやフリッツ・ラングの映画の要素がピンク・フロイドの『ウォール』のビデオに生かされているように、アーティストは互いを模倣しあっています。私もこれはいいと思った他の監督の作品をピックアップしている。もちろんそのままコピーするわけではなく、別の表現方法で。芸術には真の意味でのオリジナルなど無い。私は自分を『イメージの盗っ人』と呼んでいます」

共同脚本を手掛けたのは作家クリストフ・バタイユ。「彼とのコラボは3、4作目になるかな。『この映像に言葉を足して』って頼むと、言葉の自動販売機みたいに足してくれるんです。そのまま映像に当てはめるのではなく、別の場面と組み合わせることもある。決まりごとはありません」。音楽は『消えた画』や『名前のない墓』でも組んだマルク・マルデル。「彼も30年以上一緒にやっているので、様々なサウンドを彼の方から提案してくれる」。編集の際は「音楽で説明しないよう心がけている」とも話す。「フィクションは別の方法を取るけれど、今回のようなタイプの作品では、サウンドとテキストとイマージュの一体感を常に意識しています。いわばコラージュ。私はコラージュが大好きなんです。いろんなものを重ねて貼ったり、日曜大工のように組み立てたり。そして、物を書くようにそれらを編集していくんです」

ひとつの質問への回答が15分以上に及ぶことも。様々な事象をつなげて現代社会への危機感を語る様子や時おりのぞくユーモアは、パン監督の映画さながら。映画祭の締めくくりにふさわしい充実した時間となった。

文・深津純子
写真・吉田留美、明田川志保

11/5『すべては大丈夫』Q&A

11月5日(土)、クロージング作品の『すべては大丈夫』が有楽町朝日ホールで上映され、コンペティション部門の審査委員長も務めたリティ・パン監督が上映後の質疑応答に登壇した。自ら手作りした粘土人形と様々な映像を組み合わせて、動物が人間を支配するディストピアを描くシネマエッセイ。作品に込めた寓意や製作の経緯をパン監督が縦横に語った。

粘土人形を駆使した作品は、祖国カンボジアのクメール・ルージュによる圧政の記憶を描いた『消えた画 クメール・ルージュの真実』(2013年)以来。フランス在住のパン監督は、コロナ禍のロックダウン中にこの企画を思い付き、書斎をスタジオ代わりに製作に取り組んだという。「最初のロックダウンの時、空っぽになった街に動物が入り込んでいるのを目撃し、クメール・ルージュがカンボジアの人々を追い出した時のことを思い出した」とパン監督。感染対策で始まったはずの規制や検査が、次第に本来の目的を超えて人々をコントロールしているようにも感じ、全体主義の台頭をめぐる寓話につながった。

豚が率いる動物の一群が人間社会を征服する。自由の女神像が倒され、代わりにスマートフォンを掲げた豚の像が建立される。「豚をリーダーにした理由はふたつある」とパン監督。「まず、ロックダウン当時の米国大統領だったドナルド・トランプのことを考えました。四六時中流れてくるトランプのツイートは、まるで世界をコントロールしようとしているかのように思えました」。一方で、豚は賢い動物で、ヒトに近い面もあるという。「豚と人間には互換性があるんです。私たちが皮膚移植する際も豚の皮膚を使う。失敗に終わったが、数カ月前には豚から人間への心臓移植手術もあった。いずれは実用可能になるかもしれません」

では、動物たちが自分を人間に似せようとしたらどうなるか。「人間のような5本指を持ちたいと願い、人間の行動を模倣した動物たちは、やがて全体主義へと行きつく。そのプロセスを寓話として描いたのが今回の作品です」とパン監督。「新型コロナウイルスはどこから来たのかを考えてみて下さい。人間が森を破壊し、そこに住んでいた動物たちが否応なしに街に出て来る。そしてウイルスが広まり、今度は人間たちがロックダウンで閉じ込められる。そういう現象を映画にしようと思ったのです」

動物が支配する社会はあちこちにスクリーンが設置され、過去の戦争や虐殺や独裁者の映像が流れる。そこに警句的なテキストの朗読が重なる。「こんなキツい映画に最後までお付き合いいただき感謝します。こういう映画は全てを理解する必要はないんです。例えばワンシークエンスだけでも何か気になったことを考えて下さったら本当にうれしい」

客席からは、多彩なアーカイブ映像の使い方について質問があった。「建物の管理人が監視カメラを眺める姿をイメージしました。人工衛星、スマホ、顔認証技術。様々なものが我々を監視し、コントロールしている。そんな全体主義的状況を映画にしました」とパン監督。一方で、ロックダウン期間に見直した映画史上の作品群のイメージも生かされているという。「ジガ・ヴェルトフやフリッツ・ラングの映画の要素がピンク・フロイドの『ウォール』のビデオに生かされているように、アーティストは互いを模倣しあっています。私もこれはいいと思った他の監督の作品をピックアップしている。もちろんそのままコピーするわけではなく、別の表現方法で。芸術には真の意味でのオリジナルなど無い。私は自分を『イメージの盗っ人』と呼んでいます」

共同脚本を手掛けたのは作家クリストフ・バタイユ。「彼とのコラボは3、4作目になるかな。『この映像に言葉を足して』って頼むと、言葉の自動販売機みたいに足してくれるんです。そのまま映像に当てはめるのではなく、別の場面と組み合わせることもある。決まりごとはありません」。音楽は『消えた画』や『名前のない墓』でも組んだマルク・マルデル。「彼も30年以上一緒にやっているので、様々なサウンドを彼の方から提案してくれる」。編集の際は「音楽で説明しないよう心がけている」とも話す。「フィクションは別の方法を取るけれど、今回のようなタイプの作品では、サウンドとテキストとイマージュの一体感を常に意識しています。いわばコラージュ。私はコラージュが大好きなんです。いろんなものを重ねて貼ったり、日曜大工のように組み立てたり。そして、物を書くようにそれらを編集していくんです」

ひとつの質問への回答が15分以上に及ぶことも。様々な事象をつなげて現代社会への危機感を語る様子や時おりのぞくユーモアは、パン監督の映画さながら。映画祭の締めくくりにふさわしい充実した時間となった。

文・深津純子
写真・吉田留美、明田川志保

11/5『彼女はなぜ、猿を逃したか?』Q&A

 

11月5日(土)、メイド・イン・ジャパン部門『彼女はなぜ、猿を逃したか?』が有楽町朝日ホールで上映された。脚本家の高橋泉さんと俳優の廣末哲万(ひろすえ・ひろまさ)さんによる映像制作ユニット「群青いろ」の最新作。動物園の猿を逃がした女子高校生への取材を通して、メディアのあり方を問う。上映前には監督を務めた高橋さんと出演の廣末さん、藤嶋花音さんが舞台挨拶し、上映後には高橋監督と廣末さんによるQ&Aが行われた。

本作は、高校生が猿を逃したという実際にあったニュースがモチーフになっているという。事件の発生が報じられただけで詳細は不明だったため、高橋監督はその高校生が猿を逃した理由が気になって脚本を書き始めていったそうだ。

廣末さんの役柄は、過去に自主映画を撮っていた人物。自己言及的な設定にした理由について高橋監督は「(登場人物の)言ってることや、やっていることを自分にリンクさせたかった」と説明。「だんだん自分に夢中でなくなっていることに気付いた、と言うのかな。昔は自分の成功や失敗にすごく一喜一憂していたと思うんです。でも、今は誰か(他人)の成功や失敗に一喜一憂することが増えてきた。誰かが落ちれば自分が上がるみたいな感覚が嫌だなぁ、と思っていて、それで『自分に夢中』な映画を撮りたくなった」と思いを語った。

高橋泉監督

撮影監督は、映像作家や俳優として活躍している恵水流生(えみ・りゅうせい)さんが務めた。自然光を生かした恵水さんの撮影技術やセンスに高橋監督は絶大な信頼を置いていたと明かした。主人公夫婦が暮らす家も、実は恵水さんの自宅。家具や小道具もすべて恵水さんの家にもともとあったものをそのまま使ったというエピソードに、会場からは驚きの声が上がった。

自ら監督を務める作品のみならず、『凶悪』『朝が来る』『東京リベンジャーズ』『仮面ライダーBLACK SUN』など他の監督の作品にも脚本家として参加してきた高橋監督。脚本へのアプローチについて、自主映画は「頭の中にあるものをビチャーと出したまんま」作るのに対し、他の監督作品では頭の中を「細かくしっかり整理整頓する」という違いがあると説明。自主映画は「自分たちが見るために作っているので、完成したものが誰かに伝われが嬉しいとは思うけれど、作る時点ではまず自分が見たい世界を撮らせてもらう。頭の中で考えることは一緒でも、出し方を整理するかしないかの違いは大きいです」と語った。

藤嶋花音さんと萩原護さんという若手キャストの演技も、本作の魅力の一つだ。高橋監督は、藤嶋さんの第一印象について「高校生活が楽しくでしょうがないという様子」だったと語る。「僕らの作品はトーンが暗くなってしまうので、陰のある女の子を使うと、いい意味でツンケンした“17歳の毒”みたいな人の焦げちゃいそうなまぶしさは出なかったと思う」と振り返った。一方、萩原さんについては、他の仕事のオーディションで会った時からずっと気になっていたとのこと。彼のために役を二つ作ったというほどの絶賛ぶりだ。

会場からは「『ある朝スウプは』などのストイックな初期作と比べて、本作は会話や音楽などかなりポップな感じがした」と、映画作りの変化を尋ねる質問もあった。高橋監督は「昔は、リアルとは何かをすごく突き詰めていた」と回想し、「でも、だんだんリアルを追うならドキュメンタリーでいいんじゃないか、と。自主映画の中でリアルを追い詰めていっても、ドキュメンタリーの方が面白いものが見られるし」と説明。さらに「本作も含めて、最近はフォーカスするもの自体がファンタジックになってきている。例えば廣末くんのようなファンタジーを支える土台があるのだから、そっちに行ってしまいたいという感じですね」と付け加えた。

廣末哲万さん

「群青いろ」での役割分担にも話は及んだ。廣末さんは、「群青いろ」作品における自らの立場を「司令塔」や「インナープレイヤー」という言葉で説明。「高橋監督の言いたいことを、芝居をやる者として中で伝える、他の役者さんに感じさせる役割を僕が担っているような気がします」。高橋監督は「僕は監督といっても、脚本でだいたい演出を終えている。それを廣末くんが今度は内側から支配する。それで成り立っている感じですね」と補足した。編集のプロセスも独特。高橋監督がざっくりと編集した後、廣末さんが細部を編集するという二段階の構成で行っているという。廣末さんの監督作品のファンだという高橋監督は、廣末さんの感覚やリズム感に寄せてもらうと明かし、さらに「届ける時には届けたい人たちの顔が徐々に見え始めているので、そこは頑張っています」と話した。

 

本作で印象的なのがプリンを使ったシーン。「プリンを用いるというアイディアは、いつどんな時に思いついたのか」という質問に、高橋監督は、「プリンのことは常に考えていますね」と即答し、会場は笑いに包まれた。廣末さんも「プリンを手に乗せるって、ふつうしないじゃないですか。僕もこれまで生きて来てやったことがない。不思議ですよね、もうSFです」とコメントした。また、バルコニーから飛行機雲が見えるシーンは偶然撮れたものだという。高橋監督は「呼ぶ時は呼ぶんだと思いますね。撮ってる側のエネルギーを感じてくれると思う」。高橋監督は音楽へのこだわりも披露。本作の音楽を担当した小山絵里奈さんと相談したり、曲を書き直してもらったりしながら完成させていったと語った。

最後に、廣末さん演じるキャラクターの狂気性が話題になった。誰もが狂気性を持っているのではないかと廣末さん。「結局、それをでっかく膨らましているだけなんだと思います。結構苦労します。小さいものを引っ張り出してきては膨らますイメージでやってます」。一方で、「僕のああいう演技を他の現場でやったら、たぶん監督さんは迷われると思う。自由すぎて現場が止まっちゃう。でも、高橋さんには、人はなんでも起こしうるという許容範囲の広さがある。はみ出しているかどうかのジャッジはちゃんとしてくれるので、内側ギリギリで自由にやっている」と高橋監督の懐の深さへの信頼を語った。これに対して高橋監督は、「僕は廣末くんの演技がツボなので、笑ってしまって見てられない時は、よーいスタートをかけて消え去ります。で、戻って来て『よかったです』って(笑)。それくらい信頼しているし、ダメ出しすることもほとんどない」と絆の強さが垣間見えるエピソードを披露した。

たくさんの質問にユーモアを交えながら答えてくれたふたり。映画製作の裏側を伝える様々なエピソードからは、キャストや
スタッフの間の信頼関係も感じられた。

文・塩田衣織

写真・吉田留美

 

11/4『アーノルドは模範生』Q&A

11月4日(金)、有楽町朝日ホールでコンペティション作品『アーノルドは模範生』が上映された。自由を軽視する学校に対する抗議運動を学生たちが始めるなか、国際数学オリンピックでメダルを獲得した模範生アーノルドが不正に加担していく姿を、ユーモアを交えつつシニカルなタッチで描いた作品。上映後には、これが長編デビュー作となるタイ出身のソラヨス・プラパパン監督が登壇し、観客からの質問に答える形で制作の舞台裏を明かしてくれた。

本作は、2020年にタイ国内で起きた「Bad Student運動」という高校生たちの抗議運動に影響を受けて脚本が大きく変更されている。その経緯についてプラパパン監督は、「脚本執筆中の2020年半ばから『Bad Student運動』が起こったため、その模様を2021年1月頃まで撮影し、脚本に盛り込んでいきました」と語った。

運動に関する情報収集にはSNSを活用した。「学校の髪型に関する規則など、様々な抗議活動が起き、生徒たちは日曜日には街なかでデモを繰り広げ、平日は学校で抗議活動を行っていました。その情報がハッシュタグを使って拡散されていたので、フォローして情報収集しました」。こうして撮影された実際の抗議活動の映像も、劇中で使用されている。劇中には「サバイバルの手引き」というイラストがところどころに挿入されるが、これも「Bad Student運動」に参加した学生たちが制作、配布していた規則だらけの学校生活を生き延びるためのガイドブックを元にしている。「その主張がこの映画にも通じるという理由で挿入しました。そのアイデアは脚本段階ではなく、『国外の観客にも主張が伝わるように』というプロデューサーの発案により、編集段階で追加することになりました」。このガイドブックを生徒たちに配布する様子も劇中で再現した。

続けてキャスティングに話が及ぶと、プラパパン監督はメインキャラクターを演じたのが素人であることを明かした。先生役には、実際に大学や高校で教えている教師を起用。ただし、「本人たちは劇中のように、生徒たちを威圧するような人ではありません(笑)」と、しっかりフォローした。

一方で、主人公アーノルド役のキャスティングは難航したという。その理由は「タイ語と英語を流暢に話すキャストを探していたため」だった。7カ月かけてキャスティング部門のスタッフがようやくふさわしい少年を見つけ出したものの、出演が決まったところでコロナ禍に突入し、撮影が延期になったという。

アーノルド役の役者はまだ若く経験も浅いので、あまりインプットしすぎないよう気を付けながらさまざまな話をしたという。「演技のレッスンを受けた方がいいですか?」と尋ねられた際は、「アーノルドは、そういうところには行かないタイプなので、行かなくていいよ」とアドバイスしたという。

さらにプラパパン監督は、主人公のモデルは、アーノルドという名の友人だとも打ち明けた。「彼は非常に機転がきくタイプで、先生と口論になっても言い負かしてしまうほど。そういう部分をこの役に生かしました」。現在は不明だが、10年ほど前は、彼のような成績優秀な学生が、劇中のアーノルドのように高額の報酬と引き換えにカンニングの仕事に誘われることも多かったという。

最後に、「政治的なメッセージ性も感じたが、ライトなタッチ。なぜこういう作風を選んだのか?」という質問には「色々な怒りはあるが、それを表に出してしまうと公開禁止になりかねない。だから、最初は軽い感じにして、最後に平手打ちを食わせようと思いました」と答えた。

こうしたしたたかな計算もあって無事完成した本作。まだ検閲の手続きはしていないが、プラパパン監督は「タイ国内でも恐らく問題なく公開できるでしょう」と前向きな見通しを語ってくれた。

文・井上健一
写真・吉田留美、明田川志保

11/4『アーノルドは模範生』Q&A

11月4日(金)、有楽町朝日ホールでコンペティション作品『アーノルドは模範生』が上映された。自由を軽視する学校に対する抗議運動を学生たちが始めるなか、国際数学オリンピックでメダルを獲得した模範生アーノルドが不正に加担していく姿を、ユーモアを交えつつシニカルなタッチで描いた作品。上映後には、これが長編デビュー作となるタイ出身のソラヨス・プラパパン監督が登壇し、観客からの質問に答える形で制作の舞台裏を明かしてくれた。

本作は、2020年にタイ国内で起きた「Bad Student運動」という高校生たちの抗議運動に影響を受けて脚本が大きく変更されている。その経緯についてプラパパン監督は、「脚本執筆中の2020年半ばから『Bad Student運動』が起こったため、その模様を2021年1月頃まで撮影し、脚本に盛り込んでいきました」と語った。

運動に関する情報収集にはSNSを活用した。「学校の髪型に関する規則など、様々な抗議活動が起き、生徒たちは日曜日には街なかでデモを繰り広げ、平日は学校で抗議活動を行っていました。その情報がハッシュタグを使って拡散されていたので、フォローして情報収集しました」。こうして撮影された実際の抗議活動の映像も、劇中で使用されている。劇中には「サバイバルの手引き」というイラストがところどころに挿入されるが、これも「Bad Student運動」に参加した学生たちが制作、配布していた規則だらけの学校生活を生き延びるためのガイドブックを元にしている。「その主張がこの映画にも通じるという理由で挿入しました。そのアイデアは脚本段階ではなく、『国外の観客にも主張が伝わるように』というプロデューサーの発案により、編集段階で追加することになりました」。このガイドブックを生徒たちに配布する様子も劇中で再現した。

続けてキャスティングに話が及ぶと、プラパパン監督はメインキャラクターを演じたのが素人であることを明かした。先生役には、実際に大学や高校で教えている教師を起用。ただし、「本人たちは劇中のように、生徒たちを威圧するような人ではありません(笑)」と、しっかりフォローした。

一方で、主人公アーノルド役のキャスティングは難航したという。その理由は「タイ語と英語を流暢に話すキャストを探していたため」だった。7カ月かけてキャスティング部門のスタッフがようやくふさわしい少年を見つけ出したものの、出演が決まったところでコロナ禍に突入し、撮影が延期になったという。

アーノルド役の役者はまだ若く経験も浅いので、あまりインプットしすぎないよう気を付けながらさまざまな話をしたという。「演技のレッスンを受けた方がいいですか?」と尋ねられた際は、「アーノルドは、そういうところには行かないタイプなので、行かなくていいよ」とアドバイスしたという。

さらにプラパパン監督は、主人公のモデルは、アーノルドという名の友人だとも打ち明けた。「彼は非常に機転がきくタイプで、先生と口論になっても言い負かしてしまうほど。そういう部分をこの役に生かしました」。現在は不明だが、10年ほど前は、彼のような成績優秀な学生が、劇中のアーノルドのように高額の報酬と引き換えにカンニングの仕事に誘われることも多かったという。

最後に、「政治的なメッセージ性も感じたが、ライトなタッチ。なぜこういう作風を選んだのか?」という質問には「色々な怒りはあるが、それを表に出してしまうと公開禁止になりかねない。だから、最初は軽い感じにして、最後に平手打ちを食わせようと思いました」と答えた。

こうしたしたたかな計算もあって無事完成した本作。まだ検閲の手続きはしていないが、プラパパン監督は「タイ国内でも恐らく問題なく公開できるでしょう」と前向きな見通しを語ってくれた。

文・井上健一
写真・吉田留美、明田川志保

10/30『西瓜』Q&A

10月30日(日)、ツァイ・ミンリャン監督デビュー30周年記念特集の『西瓜』(2005年)が有楽町朝日ホールで上映され、ツァイ監督と主演俳優のリー・カンションさんを迎えて質疑応答が行われた。

 

本作はツァイ監督による7本目の長編映画で、2005年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(芸術貢献賞)受賞した。記録的猛暑で水不足となった台湾の街を舞台に、ある女性とAV男優の純愛をミュージカルシーンを交えて描く。

今回は30mmフィルムでの上映だった。質疑応答でも、まずフィルム撮影についての質問が挙がった。現在はデジタル作品が中心のツァイ監督は「私たちの世代の監督は35mmフィルムにとても思い入れがあります」と即答。「フィルムで撮っていた頃が懐かしい。どんな色が出るか、どんな風に撮れたかが、現像するまでわからない。ラッシュを見て、こんな風になっていたのかと目を見張る。そういう美的な感覚はフィルムでしか味わえないものです」と振り返り、リーさんが出演した蔦哲一朗監督の「黒の牛」が30mmフィルムでの撮影だったことに触れ「すごくうらやましいです」と語った。

本作が『ふたつの時、ふたりの時間』の続編と認識されている点についても話は及んだ。「自分の映画を独立して見ていただいてもいいし、互いにリンクしていると思われてもいい」とツァイ監督。「この2作に限らず、私の作品は結末をはっきり語っていません。登場人物たちが映画が終わった後にどこに行き、どうなるのかははっきりしていない。そんななかで、次の作品を撮り始めるという感じなのです」

昔の音楽に乗せたミュージカルシーンも、観客の好奇心をかき立てた。ツァイ監督は、「自分が大好きな中国語の歌を入れることで物語を進めたいと考えていた」と説明した。エロティックなシーンが多い作品だが、「あまり重たく表現したくなかったので、歌や踊りを入れ込むことで、軽やかさを出したかった。ミュージカルと情欲シーンをわざと結合することで、新しい感覚を引き出したかった」と語った。

リーさんもミュージカルシーンの撮影中のエピソードを紹介。「『半分の月』という歌に合わせた最初のミュージカルシーンは大変でした。大きな給水塔の中で撮ったのですが、衣裳のガラスのような繊維が体に張り付いてなかなか取れなくて。皮膚が1週間赤く腫れました。当時は若くて元気バリバリだったから撮れたけど、今なら無理ですね」と振り返った。

 

ツァイ監督も公開当時の意外な秘話を明かしてくれた。「台湾ではポルノ的なシーンが多いことが議論になったのですが、国際映画祭で受賞したことで審査部門もすんなりと通してくれた。おかげで、この作品は私の全作品のなかで最大のヒット作になりました」。一方、日本でも映倫管理委員会の審査に関連して忘れられない出来事があったという。「ぼかしを入れるのを避けるため、日本の配給会社は『オリジナルのままで通してほしい』と映倫にわざわざ手紙を書いたそうです。しかし、映倫はこの手紙を拒否しました。なぜなら、この映画は性産業という仕事の光景を描いたもので、そもそもぼかしは不要だと判断したから。映倫はとても開明的だと思います」

西瓜をモチーフにした理由についての質問では「西瓜が好きだから」というツァイ監督の一言に、観客は爆笑。西瓜を半分に切った姿が顔のように見えることや、『愛情万歳』でも同様の描写があることなど、話が尽きぬまま終了時間に。ツァイ監督は「公開19年ぶりにスクリーンで上映されて本当に嬉しい」という感謝の言葉で質疑を締めくくった。

 

文・王 遠哲

写真・吉田 留美

11/2『ダム』Q&A

11月2日(火)、有楽町朝日ホールでコンペティション作品『ダム』が上映された。レバノン出身のビジュアル・アーティストであるアリ・チェリ監督の長編デビュー作。レンガ職人の男が泥で作る不思議な建造物が独自の生命を獲得していく様子に、壮大なテーマが投影されている。上映後にはチェリ監督が登壇し、観客からの質問に答えた。

本作はチェリ監督の短編映画『The Disquiet』『The Digger』とともに三部作をなす。いずれも監督のルーツや関心のある地域を舞台に選び、地域の特性を活かした作品づくりを目指したという。

三部作に共通する主題は「大地」だと語るチェリ監督。「地理的に暴力行為があった地域を選びました。暴力があったという要素が大地や水に溶け込んで人の体の一部となっています。それが目に見えない暴力という形で浮き上がり、ストーリーを作り、歴史になっていきました。そういった素材を切り取って見せることで、社会・経済・歴史的にその土地のことを理解する入口となるような作品を目指しました」と語った。

泥を使ったシーンが多く登場する本作。泥というモチーフの意味を問われると「泥には様々な空想を触発し、他の世界への扉を開く可能性があります。人間と別個なものを想像させるものでもあります。そもそも、人類は家や器を土から作ってきました。映画に出てくるレンガ職人も数千年続く手法でレンガを作っています。そのため、泥は継続することや積み上げることを比喩として表しています」と述べた。

続いて、撮影プランについて質問が及んだ。監督は「風景をきちんととらえるために、カメラを固定して撮影しました」と撮影へのこだわりを明かした。そして「地元の雰囲気や自然のような地域性を重要視しています。ナイル川や山といった神聖な土地へのオマージュや人への敬意を持って撮影に挑みました」と付け加えた。

また、本作では犬が何度も登場し、主人公との関係性が物語の中で変化していく。この犬の存在は「前の段階を切り離して次の段階に行くためには、何らかの暴力を伴うこと」を示唆しているという。さらに監督は「主人公に癒しを与えたり怒りを鎮めたりというように、彼にとって必要な変化をもたらすための存在」だと説明した。

脚本についても語ってくれた。「まず一回目にスーダンを訪れた際にレンガ職人に会い、その土地、そこの人たちを想定して脚本を書きました。実際にその時にあったことを反映しています」という。

撮影は想定外の事態が続いた。「2017年から準備を始め、2019年に現地で撮り始めたのですが、その直後にクーデターが起き、オマル・アル=バシール大統領が追放されて政権が崩壊。我々も帰国を余儀なくされました。やっと再開のめどがつくと今度はコロナ禍。いつ現地に戻れるか分からない状況のなか、構想を練り直した。最初の撮影はドキュメンタリーでしたが、再びスーダンに戻ってから同じシーンを演じてもらったため、後半はフィクションといえますね」と話した。

脚本のクレジットには、ベルトラン・ボネロ監督も名前を連ねている。コロナ禍のロックダウンでパリに足止めされている間に連絡を取り、メールで意見を交わしながら脚本に磨きをかけていったとを振り返り、「全く違うスタイルの作品を撮る第三者の目線を取り込むことができました」と述べた。

最後にキャスティングの話題になった。出演者はプロの俳優ではなく、全員が自分自身を演じている。主演のマヘル・エル・ハイルさんは、俳優になることを夢見ていたと監督に直談判して役を獲得した。監督は「彼はジャッキー・チェンの映画が好きなので、アクション映画に出たかったようです。残念ながらその夢は叶わなかったけれど、映画デビューはできました」と明かし、「彼との信頼関係があったから撮れました」と語った。

言葉の端々から作品への強いこだわりや想いが伝わってきたチェリ監督。充実の質疑応答は、会場からの大きな拍手によって締めくくられた。

文・塩田衣織

写真・吉田 留美、明田川志保

11/01『自叙伝』Q&A 

11月1日、コンペティション部門『自叙伝』が有楽町朝日ホールで上映された。インドネシアの小さな町を舞台に、疑似親子的な関係を結ぶ2人の男を通して独裁的な強権支配の構造を描いた意欲作。上映後の質疑応答にはアクバル・ムバラク監督が登壇し、製作の裏側を語った。

映画批評家出身のムバラク監督は本作が長編映画デビュー作。製作のユリア・エフィナ・バラさんはタレンツ・トーキョー2020の修了生で、本作はタレンツ出身者の企画を支援する「ネクスト・マスターズ・サポートプログラム」の対象作にも選ばれている。

主人公は、地元の有力者の大邸宅の管理を父から引き継いだ19歳のラキブ。邸宅の主である退役将軍プルナに可愛がられ、彼に傾倒していくが、やがてその暗部を目の当たりにする。インドネシアで1990年代末まで続いた独裁政権下のような緊張感が全編に漂うが、時代設定は「2017年」。Q&Aでは、この点について神谷直希プログラミング・ディレクターがまず尋ねた。ムバラク監督は「脚本に着手したのが2017年ごろだっただけで、特に意味はない。ただ、現代の設定にすることは必要でした。独裁政権が崩壊しても、同様の勢力が今もはびこり、権力構造は変わっていないということを伝えたかったのです」と意図を説明した。

物語には、監督が少年時代に感じた社会の空気も反映されているという。「僕の両親は教師です。独裁政権下の公務員だから、政権に忠誠心を抱いていました。でも、時には従い難いこともあるように見えた。そんな両親の姿が下敷きになっています」

 

『自叙伝』という題名の意味を尋ねる質問も多かった。「筋書きがわかりやすいので、題名は抽象的なものにしたかった」とムバラク監督。「『自叙伝』にした第1の理由は、僕自身の人生がヒントだから。第2は、ラキブとプルナは互いを写す鏡のような関係で、双方が相手の自叙伝のようだから。そして第3に、転換期にあるインドネシア社会の自叙伝という意味を込めています」

 

出演者で最初に決まったのは、有力者プルナ役のArswendy Bening Swara。「プルナのエネルギーが引っ張る映画なので、脚本が第2稿段階だった5年前に決めました。彼は40 年ものキャリアを持ち、僕も長年見てきた役者さんです。ラキブ役のKevin Ardilovaは撮影の 2 年前から参加してもらい、毎月1 週間かけてリハーサルを重ね、それに基づいて脚本の改稿も進めました」

撮影では、「顔」を重視した。「ワイドショットが少ないのも、顔の中に入り込みたかったから。登場人物の目を通して、それぞれの心の中を描こうと思いました。また、ミラーリング(複製)の映画だということも常に意識していました。プルナとラキブの関係は心理的な写し鏡のようなもの。この二重性をとらえるために、大小さまざまな鏡を使いました。レンズ選びも重要で、実は日本製を使っています。KOWAの1970年製のレンズ。ロサンゼルスのレンタルショップで見つけたものです。映像にちょっと歪みが出るんですが、そこがいい。ラキブの世界観や権力に対する欲望のねじれに通じるものがありました」

映画が描いたような権威主義的支配は世界各地に今も存在する。最後の質問で、それを乗り越える方策を問われたムバラク監督は「わかりません。実は、脚本を書き始めたころも疑問だらけで、その疑問を盛り込んだ結果がこの映画なんです。脚本完成から5年以上たちますが、いまだに疑問は残っている。でも、少なくともインドネシアでは人々が疑問を投げかけるようになった。そこは変化だと言えるでしょう」と締めくくった。

批評家出身らしい明解な解説に時おりユーモアを交えて受け答えしたムバラク監督。緩急自在の新鋭が次にどんなものを見せてくれるのか、楽しみに待ちたい。

文・深津純子

写真・吉田留美、明田川志保

11/2『Next Sohee(英題)』Q&A

11月2日(水)、有楽町朝日ホールでコンペティション部門『Next Sohee(英題)』が上映された。本作は、第15回東京フィルメックスで上映された『私の少女』(2014)に続く、チョン・ジュリ監督による2作目の長編作品。上映後にはチョン・ジュリ監督が登壇し、質疑応答が行われた。

登壇したチョン監督はまず、「8年前に長編第1作目を東京フィルメックスで上映していただき、また戻ってきたいと思っていました。長い時間がかかってしまったのですが、再びこの場に来ることができて嬉しく思っております」と挨拶した。

さっそく本作の制作経緯について話が及んだ。本作は、2016年に韓国で実際に起こった、コールセンターの実習生として働いていた女子高生の死亡事件から着想を得たそうだ。当時、韓国では朴槿恵大統領の弾劾問題に人々の関心が集まり、このような事件が起きていることを知らなかったというチョン監督だが、事件の取材を重ねるうちに、「これは必ず映画化しなければならない」との思いに至ったという。

前作でも主演を務めたペ・ドゥナさんを本作でも起用した理由について訊かれると、「脚本を書いているときからペ・ドゥナさんを念頭においていた」と当て書きだったことを明かしてくれたチョン監督。「物語の途中から登場する役どころを、説明することなく、観客を最後まで引き付けることができるのはペ・ドゥナさんしかいない」、「ペ・ドゥナさんが脚本を読んだだけで、私の心の中を見透かすように私がどのように撮りたいかを把握していて驚いた」とペ・ドゥナさんに寄せる信頼の大きさを強調し、ペ・ドゥナさんの出演を「とても光栄なこと」と語った。

もうひとりの主人公ソヒ役には、新しい顔を求めていたというチョン監督。助監督から紹介されたキム・シウンさんに初めて会ったとき、自分の売込みよりも先に、「これは映画にしたほうがいい、ソヒという人間を知らせたほうがいい」と熱く語る様子に惹き付けられ、ごく自然な形で彼女にオファーすることになったそうだ。

続いて、チョン監督は事実と脚色の線引きについて触れた。本作は、ソヒがコールセンターで働き始めてから死ぬまでの前半部分と、ソヒの死後に刑事が事件を調べる後半部分に分かれるが、「前半は事実、後半は脚色」と本作の構成を説明。コールセンターの労働環境は、できるだけ現場を忠実に再現したそうだ。また、「現場実習」という教育制度のもとで起こっている数々の労働問題に声を上げている関係者に敬意をこめて、ペ・ドゥナさん演じる刑事のキャラクターを構築したという。

前作と本作では、韓国語の原題に主人公の名前(前作ではドヒ、本作ではソヒ)が含まれている点や、未成年者を扱った題材である点が共通する。「2人に関連があるというわけではありません。私が伝えたいことをタイトルに凝縮しています。未成年者を扱っているのは、社会的に弱い立場の人たちを描くため」とチョン監督は答えた。

ラストシーンの演出の意図について問われると、特に指示を出したわけではなく、脚本どおりに、俳優が感じるとおりに演じてもらえばよいと考えていたという。そして、このシーンは、「ソヒとユジンの2人にしかわからないシーン、ソヒからユジンへのプレゼントのようなシーン」として脚本を書いたと振り返った。

最後に「質疑応答の時間が短くて残念です」と名残惜しげに語った監督。観客から大きな拍手がおくられ、質疑応答が終了した。

文:海野由子
写真・吉田 留美、明田川志保

11/2『Next Sohee(英題)』Q&A

11月2日(水)、有楽町朝日ホールでコンペティション部門『Next Sohee(英題)』が上映された。本作は、第15回東京フィルメックスで上映された『私の少女』(2014)に続く、チョン・ジュリ監督による2作目の長編作品。上映後にはチョン・ジュリ監督が登壇し、質疑応答が行われた。

登壇したチョン監督はまず、「8年前に長編第1作目を東京フィルメックスで上映していただき、また戻ってきたいと思っていました。長い時間がかかってしまったのですが、再びこの場に来ることができて嬉しく思っております」と挨拶した。

さっそく本作の制作経緯について話が及んだ。本作は、2016年に韓国で実際に起こった、コールセンターの実習生として働いていた女子高生の死亡事件から着想を得たそうだ。当時、韓国では朴槿恵大統領の弾劾問題に人々の関心が集まり、このような事件が起きていることを知らなかったというチョン監督だが、事件の取材を重ねるうちに、「これは必ず映画化しなければならない」との思いに至ったという。

前作でも主演を務めたペ・ドゥナさんを本作でも起用した理由について訊かれると、「脚本を書いているときからペ・ドゥナさんを念頭においていた」と当て書きだったことを明かしてくれたチョン監督。「物語の途中から登場する役どころを、説明することなく、観客を最後まで引き付けることができるのはペ・ドゥナさんしかいない」、「ペ・ドゥナさんが脚本を読んだだけで、私の心の中を見透かすように私がどのように撮りたいかを把握していて驚いた」とペ・ドゥナさんに寄せる信頼の大きさを強調し、ペ・ドゥナさんの出演を「とても光栄なこと」と語った。

もうひとりの主人公ソヒ役には、新しい顔を求めていたというチョン監督。助監督から紹介されたキム・シウンさんに初めて会ったとき、自分の売込みよりも先に、「これは映画にしたほうがいい、ソヒという人間を知らせたほうがいい」と熱く語る様子に惹き付けられ、ごく自然な形で彼女にオファーすることになったそうだ。

続いて、チョン監督は事実と脚色の線引きについて触れた。本作は、ソヒがコールセンターで働き始めてから死ぬまでの前半部分と、ソヒの死後に刑事が事件を調べる後半部分に分かれるが、「前半は事実、後半は脚色」と本作の構成を説明。コールセンターの労働環境は、できるだけ現場を忠実に再現したそうだ。また、「現場実習」という教育制度のもとで起こっている数々の労働問題に声を上げている関係者に敬意をこめて、ペ・ドゥナさん演じる刑事のキャラクターを構築したという。

前作と本作では、韓国語の原題に主人公の名前(前作ではドヒ、本作ではソヒ)が含まれている点や、未成年者を扱った題材である点が共通する。「2人に関連があるというわけではありません。私が伝えたいことをタイトルに凝縮しています。未成年者を扱っているのは、社会的に弱い立場の人たちを描くため」とチョン監督は答えた。

ラストシーンの演出の意図について問われると、特に指示を出したわけではなく、脚本どおりに、俳優が感じるとおりに演じてもらえばよいと考えていたという。そして、このシーンは、「ソヒとユジンの2人にしかわからないシーン、ソヒからユジンへのプレゼントのようなシーン」として脚本を書いたと振り返った。

最後に「質疑応答の時間が短くて残念です」と名残惜しげに語った監督。観客から大きな拍手がおくられ、質疑応答が終了した。

文:海野由子
写真・吉田 留美、明田川志保