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2006年11月18日

アニエスベー Director’s Talk@MARUNOUCHI CAFE ジャ・ジャンクー監督を囲んで

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大盛況のうちに上映された第7回東京フィルメックスのオープニング作品『三峡好人(原題)』は、ダムに沈もうとする都市に、ままならぬ人生を生きる二人の男女の姿を重ね、東京の観客にも鮮烈な印象を残した。この作品でベネチア国際映画祭金獅子賞を獲得し、世界がいまもっとも注目する映画作家、ジャ・ジャンクー監督と、同監督のこれまでの4作品でヒロインを演じてきた女優チャオ・タオ。今回のトークイベントはMARUNOUCHI CAFE2階の落ち着いた空間に2人を招き、じっくり語ってもらう貴重な機会となった。

市山尚三プログラム・ディレクター(以下:市山)
「今回は、ジャ・ジャンクーという映画作家がどのように生まれたのか、また、チャオ・タオさんがどのような経緯で女優になったのか、といったお話を伺っていきたいと思います。作品について語るのではなく、おふたりの個人史を話していただくことはなかなかないのではないか、と。
 ジャ監督はプロフィールによると、太原の大学で美術の勉強をしていた頃、チェン・カイコー監督の『黄色い大地』を見て映画を作ろうと決心したそうですが」

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ジャ・ジャンクー監督(以下:ジャ)
「私は高校卒業後、受験に失敗し人生の目的も定まらない時期を過ごしていました。私の住んでいた田舎町では、進学はしないで適当な職を見つければいいというのが普通でした。しかし、父は政治的な理由で大学進学を諦めた経験があったため、私が勉強を続けることを望んでいました。
 美術を学び始めてからも、本当にそれが自分のやりたいことなのか分からず、心穏やかでない日々を送っていました。そんなとき、『黄色い大地』を見て、目指すべきものは映画であると気付いたのです。
 なぜそのとき映画の道を志したのか、今になって考えると、自分が生活のなかで感じたこと、自分の眼で見たもの、その中で何を願っているのか、そういったことを映像で表現していきたいという気持ちがあったのです。その気持ちを、私は映画を作り始めてからのこの10年間、放棄することはありませんでした。子どもの頃、中学に行っていなかった友達が(私の周囲では、子どもたちの半分以上は中学に進みませんでした)突風で壊れた壁の下敷きになって亡くなりました。もし彼が学校に行っていて、私と一緒に教室にいたら...人の生と死、人生の分かれ目といったことを、その後の人生でも強く意識するようになりました。それについて何かを語りたいと思っていたのです。

 以前、映画評論家のトニー・レインズ氏と話をする機会がありました。そのとき話したことで今でも憶えているのは、私にとって映画を撮ることは、心の中に溜まっている重い石を、ひとつひとつ外に出していく作業である、ということです。しかしそう言いながら、中国のめまぐるしい社会変化の中で、心の重しとなる石は新たに増えていく一方でした。だから、石を排出する作業、すなわち映画を撮ることはこれからも続いていくことになるでしょう」

市山
「その後、北京電影学院に入学するわけですが、お父様や周りの人の反応はいかがでしたか」

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ジャ
「父に、電話で『映画をやることにした』と告げると、父が故郷の汾陽から長距離バスに乗って訪ねてきました。父は私が映画スターを目指すつもりだと思って心配したようです(笑)私は監督になりたいのだと話しました。父は私の真剣さを感じてくれたのか、タバコを投げてよこしました。私が人生で父にタバコをすすめられたのは、これが初めてでした。父子ふたり、しばらく黙ってタバコをふかしていたら、父が『自分のやりたいことなら、その結果は自ら負いなさい。自分の選んだ道ならお前に任せる』と言ってくれました。

 電影学院の受験には、3回目で受かりました。試験は年に1度ですから、それだけの時間を費やしたわけです。その時期は非常に迷い、自分の選んだ道を疑ったりもしました。ある日、自転車に乗って太原の街を走っていると、突然雪が降り出しました。その時、今日は12月31日、今年最後の日だということを思い出し、とても感傷的になって涙がこぼれたのを憶い出します。家に帰り、テレビでやっていたデ・シーカの『自転車泥棒』を見て心が暖まり、やはり映画監督を目指そうと思い直しました。その後も、こんな仕事やめてしまいたいと思うたび、大好きな映画を見てやっぱりがんばろうと思う、その繰り返しです。

 1993年に電影学院に合格した後は、作品を撮る以外に、評論などの文章も書いていました。それによって私が呼びかけたかったのは、映画を撮りたい人には、誰にでもその権利がある、ということです。国家によって映画製作がコントロールされているという思いがありましたから、映画を作ることはみんなに開かれたものだと訴えたかった」

市山
「それを聞いて思い出したのですが、ジャ監督は在学中に自主制作団体を作って活動していたそうですね。今仰ったことと関係しているのでしょうか」

ジャ
「その通りです。その頃ファスビンダーについての本を読んでいたら、彼が独立して映画を撮っていたんだという記述があって非常に感銘を受けました。それで何人かの仲間を募り、短編を作る会を結成したのです。自由に表現することが制限されているという状況がありましたから、独立、インディペンデントという言葉に興奮をおぼえたのだと思います」

市山
「そこで撮った作品『小山の帰郷』が香港インディペンデント映画祭でグランプリを受賞したんですね。それでユー・リクウァイら香港の映画人たちと知り合い、デビュー作『一瞬の夢』を作るきっかけになったと」

ジャ
「『小山の帰郷』を学校で上映したとき、学生たちの評価は散々なものでした。しかし北京大学で行なった上映会では、作品の内容や背景について活発で興味深い討論が行なわれたので、私は敗北感から救われました。後で気付いたのは、作品が受け入れられなかったのはそれ自体の問題ではなく、私たちが独立して作ったという事実が、保守的な人たちの気に障ったのだということです。クリエイティブな仕事をする人間にとっては、周囲からは時に反社会的に見えても、自分の論理を貫いてやっていくことが感性を鈍らせずに生きていく方法なのではないかと思います。
 私が今までやってきたことが間違ってなかったと感じるのは、街を行き交う人々の表情の中に、人生の悲惨や苦しみを見る時です。これまでの映画の中には、中国のありきたりの人の気持ちを描いたものが少なかったのではないか、と。私はやはりそれを撮っていこうと思うんです」

市山
「長いお話、ありがとうございました。さて、チャオ・タオさんはジャ監督の第2作『プラットホーム』で女優としてデビューされたんですよね。出演に至る経緯はどのようなものだったんでしょうか」

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チャオ・タオ(以下:チャオ)
「私を含め、『プラットホーム』の出演者たちにとって映画に出るきっかけは思いがけないものでした。私は13歳のときから舞踊を学び、地方の大学でダンスの教師をしていたころ監督と出会いました。1999年の10月、スタッフが大勢、突然私の教室に現れたんです。彼らは映画の出演者探しをしているのだと言って、授業を見ていきました。その後助監督が来て、監督が私と仕事をしたいと言っている、と。それから監督の映画に出ることになったんです」

市山
「女優になるつもりはなく、偶然だったんですか?」

チャオ
「そうです、考えたこともなかった。中国では普通、俳優になりたい人は映画やお芝居の学校へ行って訓練するので、私は特別な例だと思います」

市山
「出演はすぐにOKしたんでしょうか。『これは大変なことになった』なんて思わなかったですか?」

チャオ
「出演することにためらいはありませんでした。でも単にいい人生経験になる、くらいに考えていて、まさかそれで人生や考え方が大きく変わってしまうことになるなんて、思いもしませんでした」

市山
「その後『青の稲妻』、『世界』、そして今回の『三峡好人』と、続けてジャ監督の作品に出演されています。毎回、ずいぶん役のイメージが違いますが、自分の中で戸惑うことはありますか?」

チャオ
「最初の『プラットホーム』が一番自分に近い役で、演じるということをしなくて済みました。『青の稲妻』のヒロインは、個性的というか、地に足のついていない女の子というイメージで、まったく自分の中にない人物でした。ですから、この役を演じきった後、私は女優に向いているんじゃないか、と感じたんです。『世界』ではダンサーの役で、非常に楽しめました。設定が自分の過去の状況に近く、その頃の気持ちを思い出しながら、感情移入して演じることがました。
 『三峡好人』で演じた役は、私の人生にはまったく経験のない設定でした。このヒロインは旅人で、ひとりぼっちですから、何かあったら自分の力でなんとかするしかない、気持ちの整理もひとりでつけなくてはならない、そんな状況にある女性です。非常に独立精神の強い人物で、私にとってチャレンジングな役柄でした。
 本来の自分から遠い役を演じる時は、なるべく早くロケ地に入り、その人物として生活してみるんです。早く演じる役に近づくために、あらゆる努力を惜しまないようにしています」

(取材・文:花房佳代)

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投稿者 FILMeX : 2006年11月18日 19:00


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