2006年03月20日
第56回ベルリン映画祭 レポート
映画祭の大切な役割の一つに、市場原理を貫徹すれば不要となってしまうような作品を擁護する、ということがあると思う。つまり、芸術的価値は高くとも商業的には厳しい作品をきちんと評価し、観客やプレスの注意をそこに集める、という役割だ。しかし、いかなるジャンルでもそうだが、そうした種類の作品への理解を支えているのはある程度以上の量的・質的な受容体験であり、そのことは逆に言うと、受け手全体の数を限定することにもつながってしまう。つまり、受け手(観客やプレス)にとっても、ある程度以上の時間と労力をその分野(ここでは映画)に投資しているということが、多かれ少なかれ前提になってくるわけである。しかも、そういった価値を共有できる受け手の層自体が決定的に収縮していることは間違いなく、また、それはある程度、世界的な傾向だとも言えるのではないかと思う。
なぜこんなことを最初に書いているかというと、映画祭は「観客を集めること」と、「作品を擁護すること」の両者を、少なくともある程度以上には両立させなければならないからだ。そしてその結果、そこに様々な矛盾が生じてくることは避けられないことになる。先鋭的な作品や商業的なフックを持たないアート作品を上映しようとするほど観客の幅を狭めることになり、現実的には守勢な立場に回らざるを得なくなるというねじれた状況。「革新」的な作品を擁護しているつもりでも、状況的には「保守」勢力になっているというわけである。しかも、そういった価値判断を共有できる層、あるいは共有はしないまでも、一応は理解できる層までもが、決定的に萎んでしまっているという現実がある。しかし、それでもなお、映画祭は観客を集めなければ、一つの重要な意義を失ってしまうだろう。
今年で56回目を迎えたベルリン映画祭は、業界関係者だけで1万9千人、そして一般客として約15万人(のべ人数ではない)もの人々を集めたという。この驚異的とも言える数字(前年と比べても増加している)は、どこから導き出されてくるのだろうか。確かに、一般客向けのチケット売り場では多くの上映回に「売り切れ」の表示が早々と出されていたし、例年と比較しても、ほとんどの上映会場が本当に混雑していた。しかし、このことをもって、ベルリン映画祭が「観客を集めること」と、「(芸術)作品を擁護すること」の高度な融合を果たしていることの証左と見なすべきなのかどうかについては、一旦態度を保留して、少々詳しい検討を加えなければならないと思う。つまりこの場合、「作品を擁護する」ことは適切に行えているのか、ということは考察されなければならないだろう。また、ご存知の方はご存知の通り、ベルリン映画祭は幾つかのセクションに分かれた大きな映画祭であり、その一面だけを見て語ることも出来ない。
◇コンペティション部門
コンペティションはベルリン映画祭の中心的存在であり、世間的な注目を最も集める部門である。同映画祭のコンペ部門の特色としては、政治的・社会的なテーマを盛り込んだ作品が多いことがよく指摘される。今年のラインアップに関しても、政治的な作品がずらりと並んだ昨年ほどではないにせよ、やはりそうした傾向の作品は多かったのは事実である。また、さすがに大きな映画祭の花形の部門であるだけに、ある程度マスに受け入れられる体裁の作品が選ばれることになる(あくまで程度問題だが)。換言すれば、低予算の自主映画、あるいは実験映画やドキュメンタリー作品がこの部門に入ることは、普通はあまり考えられないだろう(そしてそのこと自体は、特に非難されるべきことではない)。
ただ、そうであっても、この部門の作品選択の基準には、例年疑問符が付きまとうのも事実である。高度な芸術的達成を重視しているのか、それともやはり社会性を重視しているのか。あるいは、グラマラスな側面(=マスコミへの露出)を際立たせたいのか。実際のところは、そのどれもを掴もうとするあまり、そのどれもが中途半端な結果に終わってしまっているように見える。今年のラインアップに関しても、アルトマン、シャブロル、ルメットらのベテラン監督から、長編1作目の無名の監督の作品までを幅広く集めたと言えば確かに聞こえはいい。だが、裏を返してしまえば、作品ごとの出来や傾向もバラバラで、何本か観た後でも、一体どういう基準で作品を選んでいるのかがよく見えてこないのである。今年の映画祭の総評を書くことになった新聞や雑誌の記者は、うまく記事をまとめるのにかなり苦労したのではないかと想像する。
それにもかかわらず、さすがは大映画祭の花形部門であり、マスコミへの露出も多く、いわゆるセレブレティたちも数多く姿を見せることもあり、この部門が映画祭の代表として、多くの注目、そして実際の観客を集めていることは間違いない。また、アメリカのアカデミー賞にノミネート中の作品が何本かコンペ外作品(=招待作品)としてプレミア上映されることも、華やかさの演出に一役買っているといえる。しかしながら、何度も指摘するように、この部門が「芸術的達成」ということに関して全体として高度な成功を収めたということは、少なくとも今年に関してはないといっていいと思う。そうした欠落を「社会性」という仮面を被ることで隠蔽しようとしているようにも見えなくはないが、それはおそらく相当意地の悪い見方なのかもしれない。
◇パノラマ部門
「パノラマ」は開設されて今年で21年目を迎えた部門で、映画祭全体のディレクション(ディーター・コスリック体制)の下、独自のディレクター(ヴィーラント・シュペック氏)を頂いて運営されている。この部門の特徴としては、何らかの理由でコンペティションに入らなかった作品を上映すること(例えば、コンペ作品はワールド・プレミア上映でなくてはならないが、パノラマ部門にはそこまで厳しい制限はない)や、ドキュメンタリー作品を積極的に上映することが挙げられる。また、性(の〔再〕発見)に関する映画を積極的に紹介している点も、大きな特徴と言えるかもしれない(同性愛やトランスセクシュアルを扱った映画を対象にしたTeddy Queer Film Awardが今年で20周年を迎え、それを記念する特集が公式に組まれたことも今年の話題の一つだった。ただし、同賞はパノラマ部門だけを対象にする賞ではない)。
同部門に選ばれている作品の内容や傾向は、いい意味でも悪い意味でも、雑多である、ということがいえると思う(一応、公式サイトの説明には「インディペンデント映画、アート映画を集めた部門」とある)。この作品はコンペに入れるべきなのでは?というくらいにレベルの高い作品から、首を傾げるしかないような出来の作品までが、この部門には例年同居している。今年のプログラムに関して言えば、芸術家や音楽家に関するドキュメンタリー作品(1) や、ドイツの長編映画が多く集められた年だった。また、コンペ部門ほど注目を集めるわけではないが、観客の入りは例年とてもよく、今年についてもほぼ満員になっている上映回が多かったように思う。また、数多くのセレブリティが来場するわけではないが、多くの作品で監督を招聘しており、舞台挨拶やQ&Aを積極的に行う、より観客に近い立場の部門だともいえる。この部門の作品を対象にした観客賞も、毎年実施している。
◇フォーラム部門
今年で36回目を迎えるフォーラム(International Forum of New Cinema)は、元々ベルリン映画祭本体とは別の運営主体によって独自に「対抗」的に運営されてきた映画祭であり、若手映画作家の発掘や先鋭的な作品の紹介、あるいは映画史にとって重要な作品の再発見に尽力してきた部門である。このフォーラムにて「発見」され、後に名匠、巨匠として名を成していった映画作家は少なくないという。5年前に現ディレクターであるクリストフ・テルへヒテ氏が就任して以降は、部門としての理念に大きな変更はないものの、ベルリン映画祭本体との結びつきを強め、現在では映画祭本体の公式部門の一つとして存立するようになっている。
ただ、そうした動きに伴い、最近では様々な変節が見受けられるようになっているという話を、複数の人から聞くようになってきている。それは、簡単にまとめると、かつてのフォーラムが持っていた“フォーラムらしさ”の低下、あるいはもっと直截的に言うと、作品の質の低下、ということになるかもしれない。テルヘヒテ体制になる前のフォーラムを直接知らないこともあり、その辺りの変化に関しては個人的には判断がつきかねるのだが、一つだけ言えることは、元々は独自に行っていた作品選考をコンペティション部門やパノラマ部門と協調して行うようになったというところに、どうやらその変化の源はありそうだ、ということである。実際、パノラマ部門との間で作品の取り合いのようなことになる場合もあるようだし、両部門の境界に関しては、(作品単体を観る限り)次第に曖昧になってきているようにも感じられる。
また、ベルリン映画祭の直前に行われるロッテルダム映画祭との競合関係も、この部門に関しては深刻だろう。というのも、ロッテルダムが掲げる大きな理念の一つは映画の未来への支援、つまりは若手映画作家の発掘であり、それはフォーラムの姿勢と大きく重なっているからだ。ロッテルダムの代表的なプログラムとしては長編監督第1作・2作目を対象とする「タイガー・アワード・コンペティション」があるが、この部門への業界的な注目度はかなり高いと言える。そして、この両者はお互いに(少なくともヨーロッパでの)プレミア上映を優先するため、作品の取得をめぐって直接的な競合関係に入ることも少なくないようである。ただ、ロッテルダム映画祭のディレクターを96年から務め、同映画祭の国際的地位を高めてきたサイモン・フィールド氏が04年に同職から退任したため、この辺りの情勢は未だに流動的でもある。
このように、様々な変節の種は伺えるものの、それでも尚この部門の特徴は、比較的雑多な作品が集まるパノラマ部門と比較して、若手のフレッシュな作品や、芸術的、あるいは映画史的に価値の高い作品が集められているということに尽きると思う。個々の作品に関しては色々言いたいことが出てくることも少なくはないが、全体としてみれば、その傾向は多かれ少なかれ掴むことが出来るはずである。そしてまた、驚くべきなのは、同部門の作品が比較的硬派なラインアップであるにも関わらず、一般上映ではなお多くの観客を集めているということである。コンペやパノラマのチケットが売り切れだった観客が流れてきている場合もあるかもしれないが、そんなことでは説明がつかない程に客席は観客で埋まっている。この状況は、必ずしもプレスの注目が高いとは言えない(プレス試写の混み具合もコンペティション部門には遠く及ばない)この部門が、長年を掛け、映画の受け手である観客を「啓蒙」し、育ててきたということの結果であり、証明なのかもしれない。
◇青少年映画部門(kinderfilmfest)
少年層や青年層を対象にしたこの部門も、ベルリン映画祭には欠かせないプログラムになっている。一昨年からは「14plus」という新たなカテゴリーを設け、より高い年齢層(日本で言うと中・高生あたりか)に対しても、積極的にコミットする姿勢を見せてきている。また、「14plus」に限らず、充分に大人向きなのではないかと思われるような作品も中には招待されており、主催者側の挑戦的な姿勢がうかがえるし、同時にそうした作品を子供に観させる親にとっても、懐の深さが求められるのではないかと思う。
そしてこの部門もまた、多くの観客を集めている。当然、その多くは子供たちとその親である。そういう趣旨の部門なのだから、それは自然なことではあるのだが、他部門の作品への入場が18歳以上に限られているという事実も、その状況を後押ししている。こうした状況を踏まえ、今年から「クロス・セクション」と称し、他部門から5作品(2) が選ばれ、この青少年映画部門の作品としても上映するという興味深い試みが始まっていた。
◇レトロスペクティブ部門
同部門はドイツ・キネマテークが企画・運営を行っている。デジタル修復したばかりの作品など、出来るだけ状態のいいプリントが取り寄せられ、上映が行われている。今年の特集は「女優」に焦点を当てた1950年代の映画。今年は観客に人気のある作品と、そうでない作品が割とはっきりと分かれたようだが、個人的に観たサミュエル・フラーの『四十挺の拳銃』とダグラス・サークの『悲しみは空の彼方へ』に関して言えば、ほぼ満員の観客だった。
◇その他の企画について
この論稿では文脈上あまり深く掘り下げられないが、ベルリン映画祭がコスリック体制の下、ここ数年で立ち上げた重要な企画に、若手の作り手の教育プログラムである「タレント・キャンパス」や、アフリカ、ラテン・アメリカ、中東などでの映画製作を資金的にサポートする「World Cinema Fund」、そしてロッテルダム映画祭の「CineMart」と連動性を持たせた企画マーケットである「Co-Production Market」などがある。これらはいずれも映画の未来へ向けた投資であり、ベルリン映画祭として、映画文化の将来への積極的な関与の姿勢を示すものであるといえる。現に、「World Cinema Fund」の関与の下で製作され、2005年のベルリン映画祭コンペティションにも出品されたハニ・アブ=アサド監督の『パラダイス・ナウ』を始め、こうした企画による幾つかの成功例が出てきているのは喜ばしいことだと思う 。(3)
◇小括
冒頭で「映画祭は『観客を集めること』と、『作品を擁護すること』の両者を、少なくともある程度以上には両立させなければならない」と述べた。これはあえて強引に言い換えれば、作家主義と商業主義、あるいは芸術性と娯楽性といった指標のどこかに、映画祭が自らを位置づける必要が出てくる、ということでもある。もちろん、映画を単体として見れば、作品が芸術性と娯楽性とをバランスよく兼ね備えている場合もあれば、そのどちらかの要素を著しく欠いている場合もあり、いずれにせよそのどちらもが映画であることには変わりがない。しかし、ともすれば観客をだましてでも金を払わせようとするような映画産業(これは日本国内だけの文脈なのかもしれないが)の中では、映画祭に残された数少ない役割の一つは、多少商業性を欠いていたとしても、高い芸術性を備えた映画の方をこそ擁護していくことであることは、多くの人が首肯してくれることだと思う。
今回、何度目かに訪れたベルリン映画祭は、そのプログラム内容の硬軟を問わず、多くの上映でほぼ満員の観客を集めることに成功していた。その様子は、ほとんど驚きですらあった。しかしながら、冒頭にも述べたように、映画について(あるいは映画に限らず)ある程度以上の量的・質的な受容体験を経た上で、ある種の価値判断を共有できる層というのは致命的に収縮傾向にあることは間違いなく、それはベルリン、あるいはドイツに関しても、傾向としてはそんなに変わらないはずなのだ。それにもかかわらず、今なおベルリン映画祭は膨大な数の観客を集め、なお且つ過去数年と比較してみても、その数は増大傾向にあるようにも見える。これは一体どういうことなのか。いずれにせよ、一言で説明できるはずはなく、そこには様々なベクトルを持った複雑な要因があるはずである。
その内の一つとして、安易な推論だが、「ベルリン」というブランド力によって人が引き付けられているという側面は確かにあると思う。これは、テレビでのレッド・カーペットの模様などの報道や、新聞や雑誌に写真付きで掲載されるような記事の華やかなイメージによっても助長されているはずだ。また、業界関係者の来訪も確実に増えているのは、映画祭に併設されている(映画の権利の売買市場である)EFM(European Film Market)の拡大という要因が大きいはずである。ただ、これらのような要因だけで、観客の増加を一方的に説明するのは無理があるようにも思う。
ここから先も推論に過ぎないのだが、ベルリン映画祭に足繁く足を運ぶような人たちは、この限られた機会に観ておかなければ自らが望むような種類の映画は観られないという、ある意味でネガティヴな理由で、映画祭に足を運んでいるとはいえないだろうか。つまり、ある種の映画(=映画祭的な映画、と言い換えてもいい)の受容層というものが決定的にクローズド・サークル化している現在、通常の商業ルートに乗って公開されるような映画は、ドイツにおいても、数の面でも質の面でも、決定的に変容してきているはずだからだ。ベルリンでは平日の昼間の上映回でも満席になっていることがよくあり驚くのだが、ちょうど大学生が休みのシーズンであるということと、映画祭のためにわざわざ遠方からやってくる人たちも老若男女を問わず相当数いる、ということで半分位は説明が出来そうである。そして、そうした観客たちは、ある種の飢餓感から、上映会場へ足を運んでいるのではないか。
しかし、同時にまた、映画祭が観客を「啓蒙」してきた、つまり観客を育ててきた、という側面も、積極的に見出していきたいようにも感じる。特に、プレスの注目度もそんなに高いとは言えず、先鋭的な作品も多く並んでいるフォーラム部門の作品にも観客が満員になっているのを見ると、その思いを強くしたくなるものである。少なくともこの部門に関して言えば、その30年以上もの「対抗」の歴史を通じて、多くの映画関係者や観客の目を開眼させ、導いてきたという遺産があり、今現在の状況があるのだと思わせる、そういった重みを感じることができる。
ひるがえって東京の現実を見てみると、自分が積極的に関与したいと思うような作品と、現実の世の中で流行している種類の映画の間には決定的に深い溝があるように感じ、中原昌也氏でなくても絶望的な気分になってくるものである。それは言い換えれば、多くのジャンルで並行して起こっている能動的受容能力の低下、いわゆる「リテラシー」の瓦解、という事態だと思うが、そうした状況に「対抗」していくための術が、果たして残されているのかどうか。ベルリン映画祭、特にフォーラムの歴史の中に垣間見えてくる立派な先達たちの業績は、それを考える上でも多くの示唆を与えてくれていると思う。それは、あえて一言で言うと、それでも「対抗」していくことは必要であり、そしてその行為は、続けていかなければ意味がない、ということである。(文 / 神谷直希)
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(1) 『Absolute Wilson』 (監督: Katharina Otto-Bernstein)、『Matthew Barney: No Restraint』(監督: Alison Chernick)、『Dave Chappelle’s Block Party』(監督: Michel Gondry)、『Lenard Cohen / I’m Your Man』(監督: Lian Lunson)など。『Absolute Wilson』はアメリカの前衛的舞台演出家ロバート・ウィルソンの世界に迫ったドキュメンタリー・フィルム。一方、『Dave Chappelle’s Block Party』はニューヨークで行われた、エリカ・バドゥやカニエ・ウェストらが出演したストリート・コンサートの模様を収めた作品。
(2) 『Grbavica』(コンペ部門 / 監督: Jasmila Zbanic)、「1:1」(パノラマ部門 / 監督: Annette K.Olesen)、『4:30』(パノラマ部門 / 監督: Roystan Tan)、『Lucy』(フォーラム部門 / 監督: Henner Winckler)、『Whole Train』(ドイツ映画部門 / 監督: Florian Gaag)の5作品。『Grbavica』は結果的に最高賞である金熊賞を受賞した。
(3) 今年のコンペティションに選ばれた『El Custodio(The Minder)』(監督: Rodrigo Moreno)や、フォーラム部門に選出された『Atos dos Homens(Acts of Man)』(監督: Kiko Goifman)なども、World Cinema Fundの融資を受けた作品だという。
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◇ベルリン映画祭公式サイト(独語、英語)
http://www.berlinale.de/
◇受賞結果についてはこちらから(英語)
http://www.berlinale.de/en/das_festival/auszeichnungen_/uebersicht_auszeichnungen/index.html
◇受賞結果(独語)
http://www.berlinale.de/de/das_festival/auszeichnungen_/uebersicht_auszeichnungen/index.html
◇こちらのベルリン映画祭日記も合わせてどうぞ。
http://cine-pause.cocolog-nifty.com/pauseblog/cat5437282/index.html
投稿者 FILMeX : 2006年03月20日 10:39