事務局だより

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2004年07月30日
「日本映画の巨匠と女優たち」開催記念 ドナルド・リチー氏 講演採録

2004年6月25日?27日にわたり英語字幕付き日本映画上映会「日本映画の巨匠と女優たち」が開催されました。これを記念して、6月26日には映画批評家・映像作家のドナルド・リチー氏による講演が行われました。その内容を採録しています。

みなさま、本日は有り難うございます。御案内がありましたように今日は英語で講演させていただきまして、通訳は日本語に通訳いたします。
さて、日本は世界のどの国と比べても引けを取らないほどの映画の歴史を誇り、そして他のいかなる国にも匹敵するだけの映画の巨匠を生み出してきたにも関わらず、邦画そのものは日本国内で本来あるべきほどの上映回数に恵まれておりません。

たとえば確かに郊外にはまだ名画座というものは残っていますけれども、かつて銀座の並木座がおこなっていたような名画を上映してくれるような場所というのはもはや消え去っています。確かに京橋のフィルムセンターでは回顧上映といったイベントは計画されて行われておりますけれども、やはり場所にもそしてまた時間にも制約がありますので出来ることには自ずと限界があります。

そういう状況ですのでみなさまの多くは溝口健二、そして五所平之助といった名前にはなじみがあったとしても、実際の映画そのものの上映をご覧になった方というのはかなり限られているのではないかと思います。そして小津安二郎、黒澤明になりますと例えばテレビで放送されたり、あとはDVDとかで観る機会が多少あるかという状況かと思います。

ではありますが、こういった古い映画というのは素晴らしい体験を与えてくれるものであり、年月が経ったからといってその魅力が損なわれるものでもありません。こういった日本映画の巨匠たちは現在受けているよりもはるかに多くの上映機会を与えられるべきです。

そういったことから、このたび国際交流基金と東京フィルメックス実行委員会がこのような上映の機会を与え、そして私たち全員がこういった日本の偉大な映画監督の作品を体験する機会を与えてくださっているということは重要なのです。

こういった映画を通じて私たちが何を得るかと言えば、過去そのものに対しての洞察力を得ることが出来ます。それと同時に、かつてもいまもあまり多くのことは変わっていないのではないかということも、同時に知ることが出来ます。さきほどご覧頂きました「浪華悲歌」では、溝口健二が非常に率直に真っ正面から、事態に巻き込まれ運命に翻弄された女性に何が起きるのかということを描き出しました。映画の中の出来事は68年前に起きた事ですが、こういった事態は今も私たちの周りに残されています。こういったことを起こす状況そのものも、そしてそういったことを可能にし、そういったことを起こしかねない女性に対する態度そのものもまだ現在でも名残があります。

そして何故この女性の問題を私たちが理解するだけではなく、それを実際に自分自身でも感じ取ることが出来るのか体感できるのかと言えば、この映画というのはただの筋書きを超えた次元で語りかけてくるからです。溝口健二は芸術作品を生み出した、こういった点で他のいかなる偉大な映画監督とも同等のことをやっています。言い換えれば彼は現実にあるリアルなもの、それをさらに補完し、補強しています。溝口は意識的に音、フォルム、動き、そしてその他の要素を組み合わせそれを構築し、そういったやりかたを通じて現実を再現する、それと同時に現実そのものの焦点を絞り込み、それをさらに補っていくということを行ったのです。

「浪華悲歌」を観ることによって私たちはしっかりとした手応えを感じ取ることが出来ます。これはなぜ生み出されているかと言えば、溝口健二がある一定の限られた要素を特定の構造とパターンへと集め、それをまた配置し変えているからです。ここで語られている物語は現代に生きる職業婦人であると言うこと、そして私たちにとって馴染みのある社会的な問題に直面しているということが言えます。けれどもそれを示すだけではなく、同時に映画監督ははるかに大きなテーマ、例えば伝統的な日本の家族のあり方の崩壊そのものへとさらに視野を広げています。

そしてそれをやりながらも同時に、溝口健二は私たちにここで語られている物語は単なる大阪人のそういった欲望とか、えげつなさという物語以上のものであるということを、しっかりと私たちに理解させています。実際にここで語られているのは、はるかにひどいことであって、ここで描き出されている場所ではいわば裏と表、そういった相反するようなことに基づいている社会的な秩序に直面する中で、人間の情愛というのはほとんど歯が立たなくなっているという事態を描き出しているのです。

この映画にエレジーという言葉が題名として入れられているのは偶然のことではありません。この映画そのものはヒロインが何を失ったのかということ、伝統的な家族が完全に破壊されたということ、それと同時に日本がいまや富を生み出し、富をどうやってお互いに交換するのか以外のことが目に入らなくなっている、そういった事態に対しての不興、さまざまなアイディアそのものについてのいわば哀歌なのです。それを嘆いているそういったもろもろのアイディアが、ここで示されている物語の語り方自体によって示唆されています。

そのため、この映画を経験することによって私たちはこういった人生の真実についての知的な理解を得るだけではなく、同時にそれが人間にとって何を意味するのか、それを自分の情感そのものとしてこれを包括的に理解することも出来るのです。

巨匠にはこういうことが可能です。そしてこういった映画をご覧になっている方は、私がいま何を言わんとしているのかよくご存知だと思います。そういった意味からこういった過去が現在の私たちの周りにおいても現在も生きていることを見いだすことが出来ることは幸いでもあり、こういった経験を与えてくださっている方々に対して感謝をするものです。

そして奇妙なことですけども、少なくともある一定のタイトルに限って言えることですが、こういった日本映画の古い作品は実は日本国外で観る機会の方が多いのが現実なのです。なぜかと言えば映画というのは芸術作品であり、そして私たちに対して気持ちの上での様々な体験を与えてくれるものであると同時に、一つの生産物であるというのも現実だからです。映画というのもやはり売買の対象となっていくものであり、この映画を通じて配給会社としてはなんとか利益をあげたいと望んでいます。

通常、映画が輸出されたり、また輸入されたりする時にはどういったルートで行われるかといいますと、これは配給会社がまず入手し、そして上映館にかけていきます。最終的には例えばビデオテープになったり、あとはDVDとしてリリースされたりもしますけれども、通常は7年間とかそういったある一定の年数を区切ったかたちで映画に対しての権利が与えられ、それと加えて上映する時のために何本かコピーとして映画が購入されていきます。

それがどうなるかと言えば、この映画が何度も何度も上映されて最終的にぼろぼろになって、そして台無しになってしまったりします。そして完全にバラバラになるほどの傷みを受けなかったとしましても、この一定の年限が満了したところでこのプリントはそもそもの祖国に返されなければならない。もしくは完全に破棄しなければならないということが契約で明記されています。新たなるプリントが作成されるのは契約が更新された時、もしくは別の配給会社が現れた時だけとなります。

いま申しましたような状況として、新しいプリントが作成されなければどこか映画専門の博物館なりアーカイブ、もしくは財団がこうしたプリントを入手していない限りはこのタイトルは基本的には観られないものとなってしまいます。もちろん今ではVHS、DVDなどというものはありますけども、上映という形ではもはや観られないものとなってまいります。

そして日本映画の場合、字幕のついたプリント、そういったものは基本的には商業目的の通常の配給チャンネルを通じて売買されるだけではなく美術館、博物館、大学などの上映会のためには国際交流基金と川喜多財団とが提供するという形で入手することもできました。通常はこういった活動をしていくために、字幕つきのバージョンのプリントを購入し、そして海外のみでの上映に限定して見せていくということを約束しています。

いま申しましたように字幕付きのプリントが海外のみで上映が可能となっている理由ですけれども、そもそもの製作会社(例えば東宝など)の言い分としては、日本国外で通常の配給のルートを離れた形でもしも映画が上映されたらば、これが日本人観客の足を向けさせるのではないか、そうしたらば最終的にこの本来の映画製作会社の方に対して入場料を支払い得るような人たちが入場料を与えないことになるのではないかとおそれているのです。実際には無料での上映会だったとしても、今後入場料を払ってその映画を観ることもあろうかという人たちが、これで観なくなってしまうのではないかという理屈でなっています。理論上、危ういところもありますけれども、ここ何年かの間こういった基本的な禁止といった体制は崩されておりません。

私自身、外国の方、そして日本人の方から一番よくきかれる質問というのは、なぜ日本国内で字幕付きの日本映画を上映することが出来ていないのかということです。実は例外として国際交流基金の京都事務所の方で行われました非常に反響が良かった上映会という企画がありましたけれども、ここでもやはり観てもよいのはこういった外国人のみとなっていました。日本人は観てはならないということだったので、非常に制約つきのしばりのある上映会となっています。

私自身もこちらの日本国内で上映会を企画する時に、時には教育目的もしくは限定した会員のみを対象とするような上映会であっても、字幕付きのプリントが提供されなかった、もしくはその使用自体を拒否されたということはあります。その時の理屈はいつも同じことでして、製作会社の反対があったからと言われています。もしもそこの許可さえ得られれば、そこのプリントを使うことも出来る、けれども、この許可をとることが毎回骨が折れることなのです。

他方どうなっていたかと言えば、許可さえ得られればこういった字幕付きのプリントは海外ではかなり容易に見せることが出来たのです。というのは、大きな経済的な痛手にならない程度の海外での観客動員しか望めないという風に考えられていたからでした。そういったことから外国に行きましたらば、しばしば字幕付きの日本映画を観ることが出来るけれども、日本国内ではほとんどそれに出会うことが出来ないのです。

ではありますが、今回、初の快挙としましてこういった字幕付きのプリントを外国の方、日本の方そういったことを問わず自由に見せてもよい、そういった開かれた上映会が実現しました。誰であってもここでチケットを購入して観ることが出来るようになっています。

そしてこれは日本国内において字幕付きの日本映画の普及にとって非常に大きな前進を意味します。と言いますのも、これを持ちましてようやくこの監督の祖国においてこのような映画を上映することが出来る、そしてこれが日本国内においての2つの大きな観客層、日本人、そしてまた外国人両方によって楽しんでいただけるということになったのです。

そういった事情がありますので、今回のこの週末において行われている上映会の6本の上映そのものについては、やはり同意が得られたか否かというところでの制約はありました。実は断られたところもありますけれども、その中でも松竹、そして日活といった大手映画製作会社が今回承諾をしてくれました。こういった会社の関係者のみなさまの理解があったお陰で、このような上映会は可能となっています。これからも末永くこういった活動が続くことを願って止みません。

さて日本国内での観客を分けて考えているという話が先程も出ました。ここにお集まりのみなさま全員、すなわち日本人、そして日本人以外の外国の方々、そういった方々に実は全く違いはありません。これをあくまでも区別して考えていくというのは、算盤の上での勘定に基づいたことです。

今までにもかなり日本の物事のそういった固有性、そしてユニークさ、外国人ではそれを理解するどころか 実際にはその素晴らしさ自体が分からないのではないかということを巡って、かなり無責任な論評が行われてきました。こういった意見というのは、あくまでも自らが自分のためにユニークであり続けたいと思っている国のニーズによって生み出されるものに過ぎません。

こういった背景がありまして、黒澤明が世界的に高く評価されているのは黒澤がバタ臭いからである、日本人らしくないとか外国っぽいというのが理由だと、そういう風にしばしば言われていました。ここで示唆されていたのは外国人に何かが分かって何かが評価されるようであったらば、これは到底日本的なものと考えがたいのではないかという理屈があったのです。実はこういった論評ほど黒澤を怒らせるものはありませんでした。黒澤明自身もこのことをしばしば指摘していましたけれども、映画は日本で作っている、主な観客も日本人である、けれども同時に誰ものためにも映画を作っており、そして全ての人々が自分の観客でもあったのです。

40年前のことになりますけれども、私はヨーロッパでの小津映画を5本上映するために製作会社とかなり長く、そしてかなりきつい交渉をしなければなりませんでした。映画会社の方の言い分としては、あまりにも日本的にすぎるから小津は到底外国人に理解出来るわけがないということだったのです。決してそういうことはありませんでした。そして実際ふたをあけてみたらば、ヨーロッパ人の観客が盛大に繰り出し、そして動員出来ただけではなく、この5本の上映された映画すべての配給権が購入されました。けれどもこのヨーロッパでの上映を終えて、そして日本に戻ってきたとき、この会社のトップに何を言われたかと言うと、これはまぐれだと言われました。ヨーロッパの観客たちはただエキゾチックな物珍しさに惹きつけられていただけで、何も理解しちゃしないんだという風に言われたのです。

いまはどうかと言えば、このような間違った解釈というのはあまり聞かれなくなってきています。日本はもはや他の国と自らとを想定した比較に基づいてアイデンティティを特定する必要はありません。そしてこういった大いに歓迎すべき変化への大きな動きを作り出してきたのは映画そのものです。

そして私が思うに映画にゆくというほど、根元的に人間であるということのアイデンティティを直接私たちに見せてくれるものはないと思います。映画にゆくことによって自分とは異なった民族、異なった文化がどういった習わしを持っているのかを知るだけではなく、その人たちの気持ちを自分自身の体験として感じ取ることができます。様々なことについて人はいろいろな考え方を持つかも知れませんけれども、実際の気持ちの上の反応はというとほとんど変わりはありません。

これが映画の偉大な教えのひとつとなります。いま申し上げましたような人の感情というのは実は変わりがないということ、それを瞬時のうちにそして永久に私たちに分からせてくれる、そして芸術性が深ければ深いほど、その教えというのはさらに深い次元へと私たちを導いていきます。

このようにして日本映画の巨匠たちは私たちに直接語りかけてきています。それはちょうどフランス、イタリア、ロシア、そしてアメリカの映画の巨匠たちと同じように語りかけてきますが、こういった国ごとのそれぞれの違ったアクセント以上に共通して見られているのは、私たち万人に対して同時に語りかけてくる普遍性です。

今回、一握りですけれども字幕付きで上映し、御紹介しますこの映画を通じて、映画そのものが持っている大いなる力、それを私たちは感じ取ることができます。映画を通じて他者と自分自身を結びつけていく、そういった可能性、そして私たちが映画を通じて得るそういった共感、実際に相手の気持ちそのものを体験できるといったそういった機会、そして私たちが本当は思っているほど大きな違いはないのではないかということ、そういったこと全てを可能にしてくれます。

ご静聴、感謝いたします。

投稿者 FILMeX : 2004年07月30日 18:00



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