第5回東京フィルメックス デイリーニュース



11月20日(土)〜11/28(日)、開催の模様をデイリーでレポート!
※即日更新予定ですが、遅れる場合もありますので御了承ください。


DATES NAVI


トークショー「内田吐夢の魅力を語る」
TOP LINE INDEX



2004年東京フィルメックスの最初の上映作品となった、名匠、内田吐夢の時代劇「血槍富士」。その上映後、内田吐夢を敬愛する2人の映画人のトーク・イベントが行なわれた。「リング」「呪怨」の脚本家として知られる高橋洋と、「おかえり」「犬と歩けば」の篠崎誠監督。彼らの対談は、この後に続く<内田吐夢監督選集>の鑑賞の参考にもなるはず。鋭い着眼点で語られる、名匠のディープな世界に注目してほしい。







篠崎誠「内田吐夢さんについて語るのは、正直、荷が重いかなあと思ったんです。戦前の作品は「警察官」とか、ごく一部のものしか観てませんし、なにしろ僕が生まれたのは昭和38年ですから(笑)、オンタイムで観ているものがないんです。浅草や、池袋の名画座で追いかけている状況で。こんな話を内田吐夢さんのファンの方にして面白いのかどうかわかりませんけど、高橋さんが脚本を書かれた「リング」を観たときに、「飢餓海峡」を思い出したんです。もちろん物語もタッチも全然違うんですけど、冒頭、「リング」は海から始まるじゃないですか。「リング2」では、モノクロの使い方で、もっと露骨に出ている。それを観たときに、高橋さんはきっと内田吐夢さんの「飢餓海峡」を観ていて、それがトラウマのように表現の根幹に残っていて、そこから出てるなあという印象を受けたんですよね。一言で言うと、海の映像が不吉な場所のようで怖い。それは現実の海を観て感じたんじゃなくて、ひょっとして「飢餓海峡」を観てすりこまれてしまったのかな、という気がしたんですが」

高橋洋「実際「リング」を海から始めようということになったとき…「リング」はカラーですけど…「飢餓海峡」のあの海にしよう、とカメラマンの方と話をしてたんですよ。シナリオにも、水の粒子の一つぶ一つぶが映るような恐さで海を撮ってほしいということを書き込んだりしました。ただ、「リング」の場合は舞台が大島で、太平洋なんですよ。で、カメラマンの人は“「飢餓海峡」の海は親潮と黒潮がぶつかってるから撮れるんだ、黒潮では撮れない”と言われて…よくわからない理屈だったんですが(笑)、結局「リング」はちょっと健康的な海になってしまいました」

篠崎「僕は「飢餓海峡」を19歳のときにフィルムセンターで観て、名作と呼ばれるカギかっこ付きのものでないような、生々しいものを感じました。高橋さんも最初に、ご覧になったのは「飢餓海峡」ですか?」

高橋「そうです。もちろん劇場ではなくて、僕
が高校生のときに、東京12チャンネルに白井佳夫さんが前説をやってた『日本映画名作劇場』で。“あなたは日本映画の本当の面白さをご存じですか?”という…恫喝するような(笑)…そこから入っていって。新藤兼人さんの映画とか、ふつう高校生が観ないようなものを毎週観ていたんですが、ある日、「飢餓海峡」を前編・後編に分けて2週続けて放映たんですが、それは凄く衝撃的でしたね。確か、白井佳夫さんも前説で解説していたんですが、ニュースフィルムの質感を出すためにわざと16ミリで撮って35ミリでブローアップしているとか。今や擬似ドキュメンタリーという手法でホラー映画で模倣されてますけれど、そういうことを初めてやったんじゃないですかね。ニュースだけで独立して撮るというのは。で、ものすごい影響を受けてしまって。そのとき、もう8ミリ映画撮ってたんですけど、三國連太郎が森の中をさまよう、あのシーンを8ミリで撮ろう、と。高校卒業してから、三國連太郎が歩いた、あの森の中を自分で歩こうと思い、下北半島めぐりをしました。映画を観たはずみで、現地まで行ってしまったのは「飢餓海峡」が初めて。それくらい強烈だったんです。それと三國さんが一線を越えてしまう、あのネガ反転のシーンですかね。内田吐夢さんは、本当にいろんな実験を映画の中でやってるんだけど、あのシーンの恐さは、言い知れないものがあった。呪われたように画面が変わる、あの感じは凄いですね。あとは、内田さんの映画を観なおすと、その都度ビックリさせられんですけど、「飢餓海峡」のクライマックスで、 “北海道に行けば何もかもわかる”という三國連太郎を、取調べの刑事たちが理由もわからず、とりあえず連れていって。そこで刑事が“あれが恐山ですよ”と声かけたときに、三国連太郎が北海道に行きたいと言った、その理由を初めて自分でも悟る。そういう芝居をしているんですよ。僕も3回目に観たときに、それに気づいて感動したり。こっちも、そこに行きたくなるよなあ、(笑)」

篠崎「長さの問題で映画会社とモメたという話も聞きますが、いわゆる良くできている映画というものから、ちょっとあふれでる瞬間があって、それは内田さんの映画のなかに一環して感じるような気がします。「血槍富士」も久しぶりに大きいスクリーンで観直しましたが、最後に死体を目の当たりにした片岡千恵蔵さんの顔を、俯瞰気味のドアップで写して、千恵蔵さん、ちょっとのけぞるんですよね。それまでは割と構図が端正だったのに。これはカメラマンは吉田貞次さんですよね。10年ぐらい前に、京都で吉田さんにお会いしたとき、内田吐夢さんにいかに影響を受けてきたかということを話してくださいました。“映画でいちばん大事なのはロングショットだ”と。そういう方が後年、「仁義なき戦い」撮るのも信じられないんですけど(笑)。そういう端正に、引きやミドルサイズの寄りをやったあげく、急に画面が急に歪む。そこからまた映画がうねりだすような感じがする」

高橋「破調を恐れないんですよね。普通こういう路線ならこういうフレームというような、我々の感覚を踏み越えてくるところがあります。名作に治まろうとはしない凄みというか。ゆえに批評しにくいし、評価が確立しにくい時期もあったんでしょうね。でもそれは今や新しいとしか言いようがない。「血槍富士」も昔フィルムセンターで観たときは、僕の見方が幼いというか、“何で片岡千恵蔵あんなに強いんだ!?”という(笑)素朴な疑問を持ったんですよね。それでも最後の殺陣は物凄く恐かったというのはあったんですが。勝てるはずないんですよ、片岡千恵蔵は、どう観ても。片岡千恵蔵はたいした剣術の技量もないし、相手は5人だし。でも、酒樽がきっかけとなって、何か調子が狂う。こんなはずじゃなかったという感じで、5人が自分の運命が信じられないといったふうに次々と死んでいく。そこが怖いんですよね」

篠崎「よく見ると、槍の長さを映画の頭から丹念に見せていますよね。最初、土手を歩くところを移動撮影で見せてますが、槍が当然フレームに入るわけですから、人と槍のシルエットの対比が鮮やかにみえるし。ちょっとコミカルなシーンで、船に乗ると、長い槍の持ち場に困ってしまったり、大泥棒を結果的に捕まえるところなんかも。あのシーン、槍に覆いが被さっているはずなのに、なぜか抜き身のまま出てくる(笑)。抜き身のまま出てこないと、当然劇作としては通じないんですけど、あの白い刃がギラッと見えて、それに大泥棒が魅入られたようがによろよろと柱にもたれるじゃないですか。そういう槍そのものの物質的な特徴が、ちゃんと写ってる。で最後、クローズアップの後に、パッと抜くと、俯瞰になって。内田吐夢さんは上から俯瞰ぎみに、ロングショットで室内家屋なんかよく撮るんですけど、ここではそれによって槍の長さが凄く際立つんですよ」

高橋「あれは重要だと思うんですよ。最近、ヘンなチャンパラ映画を撮ったんで(笑)、そういう見方をしたんですけど、一対五で戦うことって大変ですよね。そのとき、槍を振り回して、あの5人が近寄れない空間を作っている。つまり、一度に5人を相手にしなくて済むという空間を作り出しているんですよね。最初のひとりをやっつけるときに、樽の奥の方に追い詰めて刺し殺しますよね。ああいうときカットを割らないで見せた方が、追い詰められる恐さが出るんじゃないかな…とファースト・インプレッションではそう思ったんですけど、今回見直して、あそこで一人を相手にグイグイやってたら、他の4人に斬られるよなあ、と(笑)。堅実なリアリズムで言うと、あれはありえないんですよ。他の4人にはいくらでも片岡千恵蔵に切りかかれるスキがあるはずなんですけど、槍を突いてる片岡千恵蔵と奥に追い詰められていく侍の素早いカットバックで見せてるので、他の4人が何をしているか観客に考えさせないし、さらに長槍を振り回すから近くに寄れないというエクスキューズもある。見事な編集でチャンバラを整理させていますよね」

篠崎「酒と女と槍」という映画もあって、英語タイトルが「マスター・オブ・スピアーズ」、“槍の達人”といって、大友柳太朗さんが槍の達人を演じるんですけど、「血槍富士」の場合は高橋さんが仰るとおり、決して達人というように見せているわけでなくて、自分で振り回しながらも処置に困ってるようなところがある。でもね、そこに片岡千恵蔵さんの形相ですよ! あれ観ると槍も恐いんですけど、千恵蔵さんの必死の顔も凄いなあ、と思います。それに刺された人間の死んでいく表情が、ちゃんと見えるようになっている。酒びたって「酔いどれ天使」の最後みたいな感じになる(笑)」
高橋「あれ、撮影当日にそうしたんだって。で、水浸しになるってことはリテイクが利かない。その異様な緊張感で持っていくという、凄い技」

篠崎「(笑)あと、お殿様が見ている視線で、みんなが手を振って去っていくシーンはオープンとセットの両方で撮った映像を使っている。単純に切り返しで見せていくんですけど、違う空間で撮った映像を目線だけで見事につないでいるんですよね。内田吐夢さんは激しい瞬間も凄いんですけど、そういう何でもないシーンもいい。こういうことは今、誰もやれなくなってるんじゃないかな、と思う。繊細で端正なところと、破綻を恐れない激情任せのところがあるんですよ。激情といっても、映画はカットごとに切っていくわけですから、激情は写らないはずなんですけど、カットが変わってもちゃんとつながってくる」

高橋「今回、見直して一番ぶっ飛んだのは、「恋や恋なすな恋」でした。これは物凄く影響を受けそうな気がします。こういう言い方をすると、いかにも珍品のような匂いが漂うかもしれませんが(笑)、そうではない。物の本を読むと、公開当時と興行的に惨敗したらしく、内田吐夢監督もそれが辛くて語ることが少なかった作品らしい。当時、浄瑠璃が一般のお客さんにとってなじみ深かった時代でも、この映画にはついていけなかったのか、という思いはあるんですが、普通の映画の物語の持続のさせ方とは違うことをやろうとしてたんだ、という実験性の凄さは今観るとはっきりわかる。この作り方が、今世の中に広がってきたらいいなと思うんですけど(笑)。途中から書き割りになるようなことも含めて」

篠崎「凄いですね。木下恵介さんの「楢山節考」のようにあえて舞台劇のようにしようということじゃなくて、現実の空間で撮っていることと、人工的に撮っていることがつながっているじゃないですか。冒頭なんて「陰陽師」より全然凄いと思いました(笑)」

高橋「リアリズムでグイグイ押していったと思ったら、途端に蝶々が飛んできて、ガラッと変わってしまう。ですから、あるひとつのトーンで作品を作っていったら、最後まで通さないとまずい、と作り手は思うし、おそらくお客さんもそう思うんですよね。そこに異物が入ってきたら“あれっ?”と思う。それは公開当時、評判が良くなかった、ついていけなかったということなんでしょうね。今や“表現のレベルが混交していっていいんだ”ということを高らかに宣言している映画だと思うんですよ」

篠崎「僕は鈴木清順さんの「陽炎座」を先に観たんですけど、後になって「恋や恋なすな恋」を観て、清順さはこれをやろうとしてたんじゃないか、とちょっと思いましたけどね。この映画は人間を突き詰めて追っていくという文脈で語られがちなんだけど、それ以外の映画としての新しい実験をしていることも忘れない。小津安二郎さんにろ、溝口健二さんにしても歳を重ねて、自分の方法論というのをきちんと固めていくんですけど、内田吐夢さんという方は、かなり若々しい実験精神を持っていたんですよね。じゃあ、人間を描くのは適当でいいのかというとそうじゃなくて、リアリズムというまなざしと、わかりやすいお芝居やカメラワークで伝えている。物語を追っていくとカメラはどんどん大人しくなり、自然さに近づいていくんですけど、そういうものにあえて背を向けて、実験をし続けている。そこが凄いなあと思います」

市山尚三・東京フィルメックス プログラム・ディレクター「時間もなくなってきたので、他に何か言っておきたいことはありますか?」

高橋「この後に上映する「たそがれ酒場」はぜひ観てほしいですね」

市山「他にも「暴れ街道」「黒田騒動」とか、あまり上映機会の多くないものもあります。」

篠崎「酒と女と槍」というのも。あれは槍自体が怖いですね。忘れたころにフッと出てくる。千恵蔵さんは内田吐夢さんの作品で何本か悲劇的な役をおってるんですけど、ここでは大友柳太朗さんに悲劇を押し付ける、というのが面白いなと思いましたし。やはり大きい画面で観たい。「血槍富士」もビデオじゃ、わかんないですよ。最後の峠の向こうに槍がスーッと消えていくのは…千恵蔵さんの姿じゃなくて、槍だけが消えていくっていうのは、映画の画面ですよね」

高橋「あとは、僕が個人的に好きなのは「妖刀物語・花の吉原百人斬り」ですね。あれは影響を受けました。「大菩薩峠」とか、ああいう作品に通じる輪廻・因果・業の世界です。糸車がまわっているシーンは、自分でも真似しました」
篠崎「あれは凄いですね。観てもらって経験するしかない映画、としかいいようがない」

(取材・文/相馬学)




BACK




フィルメックス事務局から、最新のトピックスをお届けします。「フィルメックス瓦版」