11月20日(土)〜11/28(日)、開催の模様をデイリーでレポート!
※即日更新予定ですが、遅れる場合もありますので御了承ください。
「ドッグス・ナイト・ソング」ボーディ・ベラ(監督婦人)Q&A
ボーディ・ガーボル監督とは学生時代からの友人だったというベラ夫人。ガーボルと の出会いと再会、ガーボルの映画制作に対する熱意など、数々の思い出を語っていた だいた。
「1967年に初めて会ったとき、ガーボルは哲学科の学生で私は高校生でした。食事を しながらキルケゴールやサルトルの実存主義の話を随分聞かされ、私は大変感心した 覚えがあります」
その後、一度ハンガリーを離れたベラ夫人は、ガーボルの作品を初めて観たとき、大 変驚き、また喜びを感じたと言う。
「やってくれたな、と思いました(笑)。とても特異な人なので、何か大きなことを するだろうと思ってはいましたが。映像における新しい趣向や新しい視点、その実験 性に私は感服いたしました」
1980年にガーボルと結婚したベラ夫人は、『ドッグス・ナイト・ソング』の撮影中、 演出助手としてあらゆる作業に関わった。
「元々脚本が無い映画でしたので、毎日脚本を用意しました。セリフの一部は私が書 いたものです。またロケ現場を探したり、低予算映画だったので衣装も私が担当した んですよ。40日間の撮影期間中、まさに24時間労働でしたが、それはとても面白い経 験でした」
ガーボルは、映画撮影の準備として、事前のリサーチに膨大な時間をかけたと言う。 「『ナルシスとプシュケ』のときは私は一緒に活動はしていませんでしたが、彼に聞 いたところ、撮影は1年間だが準備に3年間かかったと言っていました。人生のうち 4年間もこの映画に費やしたわけです。コンテ、スケッチ、写真などを含む、この作 品の資料を積み上げると、ものすごい厚さになりました。自分の中の第二次世界大戦 のようだ、と彼が言っていたのを覚えています。それだけ精神と肉体を酷使し、自分 の全てを出しつくして作った映画なのだと」
膨大なリサーチは『ドッグス・ナイト・ソング』でも同様。
「ガーボルは、まるで学生のように歴史や哲学や科学を勉強していました。また時代 背景や人物、設定や状況などをじっくり考え込みながら物語を展開させていきまし た。それから、この写真を撮ってくれ、図書館でこれを調べてくれ、この人にインタ ビューをしてこい、などなどガーボルはスタッフに多くの仕事を与えましたが、彼に はカリスマ性があったので、スタッフの人々はそうやって使われることを大変喜び、 興奮しながら仕事をこなしていました」
「『ドッグス・ナイト・ソング』の撮影では、舞台になった村で5ヶ月暮らしまし た。彼は村人と大変親しくなり、特に女性に人気がありました(笑)。彼らにはアマ チュアの俳優としてこの映画に出演してもらいましたが、ガーボル自身を皆が非常に 好きになってくれたので、彼らの協力を得られたわけです。毎日飲み屋に行ったり、 村人の家に招かれたりして、5ヶ月間で村人全員の私生活を知り尽くすほどリサーチ を重ねました」
撮影を依頼した、アメリカ在住の女流撮影監督ジョアンナ・ヒールとも、カラーフィ ルターの使用について、かなり議論をかわしたとか。そう、この作品は、シーンごと に色彩がガラっと変わるため、映像が強烈なイメージとして我々に記憶されることに なる。赤、藍、緑……。使用されている鮮やかな色がそれぞれ意味するものとは? 「例えばガーボルが演じている神父が登場するシーンは、ほとんど赤、ピンク、オレ ンジなど暖色を使っています。それは“愛”を象徴しています。ガーボル監督は、人 間にとって一番大事なことは“愛されること”だと考えていたようです。
それから、崩壊してしまう少年の家庭のシーンでは、緑、青、ネオン色のような寒色 をたくさん使っています。分裂症気味の映像を映し出したかったんです」
当時社会主義国家だったハンガリーでは、検閲が行われ、その表現方法について検察 当局とガーボルの間で激しい攻防があったようだ。
「検閲当局は『ナルシスとプシュケ』を、なるべく短いバージョンで上映させようと しました。例えば19世紀の議会について描いているシーンがありますが、大国の支配 下にあった当時の状況を描きながら、ハンガリーは独立国家であるべきだいうガーボ ルのメッセージが暗喩されています。そのように検察当局が気に入らないシーンが多 かったのです」
『ドッグス・ナイト・ソング』でも、車椅子に乗った共産党幹部の男の描き方につい て、ガーボルは検察当局とケンカをしたこともあったとか。 「あの男性は引退したあと、悲劇的な人生を送っています。その悲劇は歴史の中で産 まれたものだ、ということが映画から読み取れますので、その描き方は検閲許可スレ スレの表現だったと思います。一般のハンガリー人の間でも大変な物議をかもしまし て、映画館で見てカンカンに怒った人たちもいました。
軍の関係者からも相当クレームがつきました。レストランで隣に座った軍の将校たち から、“殺すぞ”と脅されたこともありました。そのように、当時この映画を作るこ とは、大変危険を伴うものだったのです」
(取材・文/上原千都世)