第5回東京フィルメックス デイリーニュース



11月20日(土)〜11/28(日)、開催の模様をデイリーでレポート!
※即日更新予定ですが、遅れる場合もありますので御了承ください。


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トークショー「ウド・キアー氏を囲んで」
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『悪魔のはらわた』(1973年)、『処女の生血』(1974年)で、その名を知らしめ、 その後数々の作品で必ずといっていいほど強烈な印象を残し、まさに“怪優”という 言葉が似合うウド・キアー。思いのほか気さくで喋り好きな怪優のトークイベント は、さながら“講演会『ウド・キアー、その半生を語る』”とでもいうような、彼の ひとり語りで終始した。













「面白いので、ぜひ続けましょう」という、進行役の市山 ディレクターの粋なはからいで、終了時間も大幅にオーバーしての独演会となった。 ドラマチックな出生秘話、そしてライナー・ベルナー・ファスビンダーやラース・ フォン・トリアーといった親交の深い監督たちとの交流など、ファンならずとも興味 深い話の数々に、参加者は食い入るように聞き入っていた。

「ハローハロー……(低い声で)。私は吸血鬼として生まれた男です。グッドイブニ ング、ボンソワール、グーテンアーベン、日本語では? コンバンハ(場内爆 笑)。」
『処女の生血』でドラキュラ伯爵を演じたウド・キアーならではの、ユーモアあふれ る挨拶に、参加者も大喜び。

ウド・キアーは1944年、ドイツ・ケルン生まれ。現在はハリウッドのロサンゼルス在 住。「私は今年で60歳になりますが、今まで病気も入院もしたことがありません。タ バコも吸い酒も飲み、踊り、毎日こんなに楽しんでいるというのは、本当に素晴らし い生活です」

● 激動の出生秘話
「戦時中で、私が産まれてすぐ空爆があったんです。病院の壁が崩れて、周りの赤ん 坊や赤ん坊を守ろうとした看護婦さんたちは全員亡くなってしまった。でも私と母親 は幸運なことに、ベッドが部屋の隅だったため助かったんです。母は片手で私を抱 え、もう片方の手で壁に穴を開けて外に助けを求めました。このように産まれてから 最初の1時間、すなわち私の人生の幕開けは非常にドラマチックなものでした。たぶ んその経験のせいで、私は俳優になったんだと思います」

●留学と映画初出演
「戦後のひどい時代を経て、19歳の時に私は英語を勉強するためにロンドンに留学し ました。その時、当時の私のガールフレンドであるイタリア人女性が、映画のキャス ト募集の話を聞き私に教えてくれたんです。マイク・サーンという歌手の初監督作品 『Road to St.Tropez』(1966)で、それが私の映画出演のキャリアの初まりだった わけです。私はそれまで映画の出演経験はありませんでした。でもルックスがとても よく、カメラ映りがよかったんです(笑)。撮影時、クローズアップのショットが あったんですけど、望遠レンズで遠くから撮影していたために、私はカメラを一生懸 命探しながら演技をしました。その表情が、クローズアップとして非常にいい映像に なったと聞いています」

●ドイツに戻って
「ドイツに戻って、すぐに俳優エージェントに所属し、最初の長編モノクロ映画であ り、ロックヤセックスにまみれたチープなギャングスター・ムービー『シェームレ ス』(1968)に出演することになりました。その後、初めてのカラー作品に出演しま した。これは日本でも公開されていますよね。『悪魔のはらわた』(1973)です。当 時チケットを1枚買うと、吐き袋がひとつ渡されました。これは非常にいい戦略だっ たと思います。当時にたくさん集めていれば、今インターネットで非常に高く売れる んじゃないですか? 私も欲しいくらいです(笑)」

●ファスビンダーとは10代からの友人
「私の生まれたケルンに、労働者階級の人たちが集まるバーがあるんです。週末にみ んなが酔いつぶれるようなところなんですけど、そこで出会ったのが(ライナー・ベ ルナー・)ファスビンダーです。彼は16歳で私は17歳。まさか彼が映画監督になるな んて思いませんでしたし、私も俳優になるとは思ってもみませんでした。当時、私は 非常にルックスがよくてハンサムな男で、彼はあまりカッコよくはなかった。まるで 美女と野獣が一緒に遊んでいるような感じでした(笑)」

「その後私はロンドンで、ドイツの有名な週刊誌に、彼が大きい写真になって載って いるのを発見しました。しかも“アル中”という見出しでした。それからミュンヘン で彼と再会したのですが、あまりいい再会ではありませんでした。1年後に『自由の 代償』(1975)に出ないかと言われましたが、その時は断りました。最初にファスビン ダーの映画に出演したのは『哀れなボルビザ(Bolwiser)』(1977)です。
それ以降、私はファスビンダーの全作品に関わることになりました。俳優で出演する ほか、『ローラ』(1981)のような作品はセット・デザイナーをやりました。監督の助 手のようなこともしました。というのは、ファスビンダーは、映画作りという契約で つなぎとめないと、友達はみんな逃げてしまう、と思っている男だったからなんで す」

●『悪魔のはらわた』『処女の生血』について
「その後ローマで『ピティレス』という作品の撮影が終わって戻る飛行機の中で、隣 に座った男がポール・モリセイだったんです。彼は私の電話番号を聞き、早速パス ポートに書き込んでいました。そして1ヶ月後に電話がかかってきて、映画を作るん だけどフランケンシュタインの役をやってほしいんだ、と言われました。それで『悪 魔のはらわた』への出演をOKしました」

「『悪魔のはらわた』『処女の生血』は、アンディ・ウォーホル製作の映画です。 ウォーホルの映画はセックス、ドラッグ、ロックにまみれた、非常に堕落した生活の 中で作られていると思われがちです。でも実際は、みんなで一軒家の中で同居しなが ら映画を作ることだけに専念し、お酒も飲みませんでしたし、もちろんセックスもあ りません。『悪魔のはらわた』を撮影していた、チネチッタの隣のスタジオではフェ デリコ・フェリーニが撮影していました。ホントに素晴らしい時間を過したので、撮 影が終わりに近づくと寂しい気分になってしまいました。自分のキャリアは始まった ばかりなのに、もう撮影が終わってしまう、と。そんな風にセンチな気分になってい たら、ポール・モリセイに、次の映画でドラキュラをやってくれ、と言われたんで す。ただし、これから5日間で20ポンド(約10キロ)体重を落としてくれ、と言われま した。私はそんなことは不可能だ、と言ったんですが……。

そこで私は食事を一切辞めてしまいました。水だけで過しました。すっかり体力がな くなり弱ってしまいました。それで『処女の生血』では、車椅子に座っている役に なったんです。『悪魔のはらわた』で見せたような元気が全くなくなってしまって、 ただ処女の生き血を求めるのみの吸血鬼に成り下がってしまったんです。本当に力が なくなってしまって、立ち上がることさえもできないくらいでした。こういう風に役 を作るやり方はロバート・デ・ニーロが初めてと言われていますが、ずっと前に実は 私がやっていたんです(笑)。

この映画で、私はとても有名になりました。ちなみに2年前に、ニューヨークの 『ヴァンゴリア』という雑誌で、ここ100年の“最優秀吸血鬼賞”をいただきまし た。私はその後ホラー映画にたくさん出るようになりました。ジキルとハイドもやり ましたし、切り裂きジャックもやりました。残るは狼男の役なんですが、私は今、家 で飼っている3匹の犬を観察し、日々彼らの研究をして、いつか東京で狼男の役をや りたいと思っています(笑)。東京は美しい町ですからね。例えばこんな設定はどうで しょう? 人通りのない街でネオンが輝いている。その時ティファニーから狼男が出 てきてシャネルに入っていく。狼男は金持ちの女性しか襲わない。 ところで、こんなひとり語りでいいんですか?」

市山ディレクター「面白いのでぜひ続けてください」(場内拍手喝采)

●ラース・フォン・トリアーとの出会い
「自分で監督した短編映画があるんですけど、それがマンハイム国際映画祭で上映さ れることになりまり、その中で声を担当してくれた友人のファスビンダーと映画祭に 行きました。その映画祭のオープニングが、ラース・フォン・トリアーの『エレメン ト・クライム』(1984)でした。この映画を観終わった後、私は立ち上がれなくなりま した。ファスビンダー、タルルコフスキー、いろんな巨匠を思わせるような力強い映 画だったからです。そのときに、同じコンペティションに出品したアメリカの監督た ちと一緒に観ていたんですけど、私は彼らにもう帰ろう、グランプリはこの作品で決 まりだ、と彼らに言いました。みんなは「ホントかい?」私は「間違いないよ」と。 実際、ラース・フォン・トリアーの作品がグランプリを撮りました。

そして映画のディレクターに、ラース・フォン・トリアーに会いたい、と伝えて会う ことになりました。始めはスタンリー・キューブリックやファスビンダーのように、 黒づくめの非常に機嫌の悪い男が現れるんだろうと思っていました。そしたらとても 若くて、スニーカーにセーター、身だしなみがキチンとしている青年でした。彼は会 うなり私に『映画祭なんて大嫌いだ』と言いました(笑)。ここにくる途中に、教会 の前でおばあさんがひとり泣いていた、その方が映画祭に参加することなんかより、 ずっと心動かされるんだと言っていました。

それで彼と1,2杯ビールを飲んで、その1ヶ月後に、『メディア』(1988)に出演す ることになったんです。その時、トリアーから4週間後に撮影が始まるまで、一切ひ げを剃らず、髪を洗わず、風呂に入らないでほしいと言われました。実際4週間後に 飛行機に乗って行ったんですけど、臭いし汚いし……(笑)。ビジネスクラスに乗って いたので、周りの人はこいつは誰だろう? と奇妙に思ってくれた程度ですみました が。

そんなワケで出資者のデンマークテレビに、私が王様の役にふさわしいということを うまく説得することができました。その時、トリアーは私に馬に乗れるかと聞きまし た。私はもちろん、と答えました。俳優の第一原則は、何か役をオファーされた場合 に絶対すべてできるというフリをすることなんですね。例えばシュワルツェネッガー と共演した映画(『エンド・オブ・デイズ』)では、蛇をつかまなければいけない役で した。そのとき映画の製作プロダクションは私のマネージャーに、ウド・キアーと蛇 との相性を聞いてきました。私はマネージャーに、私は蛇が大好きだと答えてくれ、 と、言いました。でも私は本当は蛇は大嫌いなんですよ(笑)。

そしてついに馬に乗らねばならない日が近づいてきました。非常に複雑な撮影の ショットだったんですけど、やはり馬は動かない。私は『馬に問題があるんじゃない か?』と言ってしまいました(笑)。結局持ち主が馬の耳元で何か囁き、ようやく馬は 走り出しました。

実はその頃、トリアーの奥さんが身ごもっていて、私は生まれた赤ちゃんのゴッド ファーザーになりました。トリアー家の一員になったというわけなんです。その後、 『イディオッツ』を除くトリアーの作品すべてに私は出演しています。『イディオッ ツ』はデンマーク語ですから(笑)。

その後、ベルリン映画祭に行ったときに、たまたまこのとき『マラノッチェ』(1987) という映画でガス・ヴァン・サントが来ていました。て、そのとき彼が私のところに 来て『あなたの演技がとても好きです。今、実はキアヌ・リーブスとリバー・フェ ニックスが出演する映画の企画があるんですが、“ハンズ”という役をやってくれま せんか』と言いました。(『マイ・プライベート・アイダホ』(1991)) ちなみにアメ リカの映画では私の名前は必ずハンズという名前です。日本でもハンズマンという名 前で呼ばれています」

市山ディレクター「これは『アナザー・ウェイD機関情報』(1988)という映画のこと です。たぶん今では見ることが非常に難しい映画で、役所広司さんが主演、ウド・キ アーさんが、ハンズマンという役で共演しています」

ウド「それから日本のハミガキのCMにも出演しました。わざわざアメリカからやっ てきて、セリフは唯一、『はい、私がドクター・ナビックです』(笑)」

市山「それから奥菜恵に向かって『どう?』っていうセリフがありましたね」

ウド「ドウ? ドウ? 彼女も当時はまだ幼かったですね。それからアンソニー・ホ プキンスと共演で、ホンダのCMもやりました。残念ながら運転していたのは彼で、 私は後部座席にいました」

ここからようやく参加者とのQ&Aに突入

:今まで出た映画で、一番好きな映画と、出なければよかったと思う映画はありますか?

ウド「一番好きな映画というのは、当然ながら私の人生を変えたような映画ですね。 『悪魔のはらわた』『処女の生血』に『マイ・プライベート・アイダホ』、ラース・ フォン・トリアーの作品、そして大変エロティックな映画『O嬢の物語』(1975)で す。
後悔の残る映画はたくさんあります。でもそれは、作品名を忘れてしまうくらいなの で(笑)」

:『キングダム』の続編を心待ちにしているんですが、いつできるんでしょうか?

ウド「私も待ち通しいです(笑)。悪魔も赤ちゃんも死んでしまったので、次に私が 病院に登場するとすれば、幽霊の役しかありませんよね」

:最初にファスビンダーに映画出演を依頼されたとき、断ったのはなぜですか?

「再会したとき、彼は傲慢な男になっていたんです(笑)。ですから最初はなのでノー と言わなければならないと心に決めていました。2回目以降が大事なこともあるじゃ ないですか」

:映画というものを意識し始めたのはいつでしょうか?

「かねてから主役をぜひやりたいと思っていましたし、クローズアップの多い映画に 出たいと思っていました(笑)。若い頃は毎週日曜日に映画館に行っていました。当 時私は海賊映画が大好きでした。船に乗って遠くに旅をすることにすごく憧れていた んです。
少し成長してから意識し始めたのは女優ですね。エリザベス・テイラーやソフィア・ ローレンの出ている映画です。監督は気にせず、女優を観に映画館に行きました。イ ングマール・ベルイマンの『沈黙』(1963)も印象的でしたね。ふたりの女性がキスし ているシーンに胸をときめかせていました。それからフランス映画も好きでした。フ ランソワ・トリフォーやクロード・シャブロルなどが好きでした。

俳優になってからは少し映画の見方が変わりました。スタンリー・キューブリックや アンドレイ・タルコフスキー、デビッド・リンチやクエンティン・タランティーノと いった、いわゆるよい映画といわれるものに目を開かされました。私にとって映画 は、映像だけではなく、泣いたり笑ったりという感動がすごく大事なことなんです。

そうそう、若い頃はダグラス・サークの映画、メロドラマが好きだったんですね。後 に実際にダグラス・サークに会う機会がありました。それはロカルノ映画祭で『ナル シスとプシュケ』が上映されて賞を取ったときだったんですけど、食事会があって、 そこにはダグラス・サークと奥様がいたんです。パトリシア・ハイスミス、女優のリ サ・クライツァー、ポール・モリセイと私、というメンバーでした。その食事会は一 生忘れることができないでしょう。

人生で忘れられない瞬間、そういうことってありますよね? 『裸のランチ』のウィ リアム・バロウズと、カンザスで会ったことがありました。そこではみんなで料理を したりして食事をしたんですけど、彼は自分の銃を見せてくれました。実はその中の ひとつには、彼が自分の妻の胸を打ち抜いた銃もありました」

:ラース・フォン・トリアーの現場は、俳優とのトラブルが絶えないと聞いていま すが、ウド・キアーさんは、彼に怒りを感じたり、憎しみを感じたりすることはな かったのでしょうか?

「私はありません。時々、レストランで食事をしているときに、トリアーがじーっと 私を見つめることがあります。そのときには私も立ち上がって『わかった、帰る!』 ということもありますけど(笑)。でも友人ですし関係は悪くありません。トリアー にはよくあることですけど、彼はひとりの犠牲者を決めるんです。その人は、いたた まれなくなって出て行くか、全て彼の仕打ちを受けるか、というふたつの選択肢しか ありません。結局、彼の元には非常にマゾな人たちが残るようなんですが(笑)。

多くの天才たちと仕事をすることは嬉しいことです。でも天才というのは、当然頭が どこかおかしいんですよ(会場笑)。天才ですから頭がおかしいんです。天才という のは自己憎悪が強い。というのは、もっとより高く、もっと良く、と自分に課すハー ドルが高いんです。自分に対する憎しみが高まった結果、自分に対して向けられない 憎しみを、他の人に向ける、という傾向があります。
そういう一面もありますが、天才たちはまた、いいヤツでもあります。彼らは歌を好 む傾向がありますね。ファスビンダーと一緒に、車に乗りながら歌を歌うこともあり ますし、トリアーともセットに向かうときに一緒に歌うことがあります。トリアーは いいヤツですよ。才能もありますが、いいヤツでなければ、彼と一緒に組んで、これ ほどたくさんの映画を作らなかったでしょう。ちなみに彼は俳優に演出をしません。 唯一言うことは『演技をするな』ということでしょうか」

:トリアー監督が30年ごしで撮られる映画『ディメンジョン』は、まだ撮ってい るのでしょうか。

「まだ続いています。始まって7年になりますけれども、毎年ジャン・マルクバール (『ヨーロッパ』(1991)など、トリアー作品に多数出演)などと集まっています。たい がいクリスマスの頃に家族のディナーのように集まって、1日撮影をします。という のは、2024年に完成する予定のこの映画は、1年間に3分間しか上映時間が必要ない からなんです。私はぜひ、2024年に生きて完成した映画を見てみたいと思っていま す。メイクなしに30年間老いふけていくという自分の姿を見てみたい。背中も曲が り、毛も薄くなっていくと思いますが、そんなまるでCGを使ったような、でもそう ではない生の自分の映像が見られるでしょう。ただ、もし私が撮影途中で死んでし まったら、自分の葬式にこの映像を使用することを許可しています。私が死んだら、 別の役者が私の役を受け継ぐわけですが、その葬式のシーンで、まるで自分が絶頂に 達して、精子が次の俳優に受け継がれていく、そういう展開になったら面白いんじゃ ないかと思います(笑)。ただ、このような企画は特殊でして、トリアーと私が家族同 然でなかったらやらないような作品ですよね。私の精子は貴重ですから、どの監督に もあげるわけにはいきませんよ(笑)」

:悪役が多くて、しかもそういう役の方が印象的なんですが、そういう部分という のは、やっぱり自分の中にあるものなのでしょうか。

ウド「私はプライベートでは悪魔とは正反対です。ガーデニングをしたり、野良犬を 拾ってきて育てたり、クラシック音楽や、絵を描くのが好きです。ただし悪役をやっ てくれ、と言われたら、非常に悪いやつを演じることが出来ます。
悪魔のような役を演じるのは、天使のような男でないと出来ません(笑)。悪役を演 じるのはすごく楽しいですよ。お金を払ってくれるなら、なお嬉しい(笑)。映画と いうのは何をしても許される世界です。東京で裸で走っても、警察が後ろからサポー トしてくれたりする。通常、映画じゃなかったら逮捕されるようなことが許される世 界なんです。役者は英語でプレイヤー、と言うこともありますが、演技をするとい うことは子供の遊戯のようなものだと考えています。お金をもらって遊べるというの は素敵なことですよ。60歳にもなって、あれやれこれやれといろんな映画監督に言わ れるわけですから、それに耐え忍ばなければいけませんしね(笑)」

:自分はルックスがいい、とおっしゃいましたが、自分の中でどこが好きですか

「馬鹿な質問をしてくれました(笑)。もちろん目です。ウエストから上は目で、下 からは別のモノが好きなんですけど(笑)。目は、当然、目を通して世の中をみるか らです。それに幸運なことに、私はとてもいい色の目をしています。私は今、自分が ハンサムだと思っているわけでなくて、20歳の頃の自分がハンサムだったと言っただ けですよ。60歳で自分をハンサムと思っているなんて、倒錯的じゃないですか(笑)」

:お母さんのエピソードをもうひとつ聞かせてください。

「たくさんあるんですけど……。私は小さい頃は菜食主義だったんですね。貧乏だっ たからです。今は菜食主義、というのはかえってお金がかかると思うんですけど。当 時はお金が無かったので、毎日母はスープばかり作って私に食べさせました。月曜日 は豆、火曜日は白インゲン、と言う感じで、肉が食べられるのは日曜日だけ。今私が 健康なのは、そのおかげだと思っています」

ラース・フォン・トリアーとの出会いのエピソードなどを聞くと、まさに彼が映画祭 を楽しみ、その後の活動につながっていったという過程がよくわかる。映画祭を楽し み、演ずることを楽しみ、そして人生を楽しんでいるウド・キアー。ささやくように 『アイルビーバック』と言い放ち、大きな拍手に包まれて会場を後にした。

(取材・文/上原千都世)




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