第5回東京フィルメックス デイリーニュース



11月20日(土)〜11/28(日)、開催の模様をデイリーでレポート!
※即日更新予定ですが、遅れる場合もありますので御了承ください。


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「世界で一番悲しい音楽」ガイ・マディン監督 Q&A
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カナダの鬼才ガイ・マディンの作品が日本で上映されるのは、1992年に「ギムリ・ホスピタル」「アークエンジェル」がロードショーされ、同年の東京国際映画祭で「ケアフル」が上映されて以来のこと。今回の東京フィルメックスでの上映が12年ぶりとなる。















Q&Aでは、市山プログラム・ディレクターにも上映の経緯に関する質問も飛び出した。その説明によると、カナダ大使館創設75周年イベントの一環として企画が持ち込まれ、市山が大ファンだったというガイ・マディンの特集を企画するに至ったという。ガイ・マディン監督も久しぶりの日本を満喫している様子。「日本を吸収したくて、毎日歩き回っているからクタクタです」とのことだ。

 マディン監督は1990年代後半の仕事については不完全燃焼であることを認める。「「ケアフル」を撮って以来、7年は行く末が定まらず、砂漠をさまよっているような状態だった。短編を撮ってはいたものの、いずれも愛のない映画ばかりでした。2000年になってスーパー8を手にしたことは、私にとって久々に気持ちの良い出来事となりました。大きな規模の洗練された映画を撮ることから頭を切り替えて、原始的な方法に向かっていこうと思ったのです。それによって、まるで子どものように、さまざまな発見の喜び・驚きに遭遇することができました。おかけで、また映画に恋をするようになり、以前よりも深い愛情を感じています。ここ2、3年の創作活動は、とても充実しています」

「世界でいちばん悲しい音楽」は、日本生まれのイギリス人作家カズオ・イシグロの脚本を映画化したものだが、映画は完全にガイ・マディンならではのシュールで、ブラック・ユーモアあふれる作品となっている。どのような経緯で、その映画化に至ったかという市山ディレクターの質問に対して、マディン監督は「多くの脚本がたどる運命と同様に、1985年に書かれた脚本はさまざまなプロデューサーの手に渡ったあげく、企画が立ち消えになった。しびれを切らしたイシグロが、作家性のある監督に任せて新しく作り直す…というようなアプローチに変更したのです。そこで私に声がかかりました。具体的にはタイトルと、“悲しい音楽”のコンテストの要素は脚本のまま。大きな変更点は、ペレストロイカが始まる直前のロンドンを舞台にしていて、東側の市場にアルコールを流出させようとする動きが背景になっていた脚本の設定を、大恐慌時代のカナダ、私の故郷ウィニペグに設定したことですね。悲しい音楽を競い合うという設定は、大恐慌時代のような厳しい状況の方が似合うと考えたのです」と答えた。また、「スウィート・ヒアアフター」などで知られるアトム・エゴヤン監督が製作総指揮で名を連ねた経緯については「当初エゴヤンが、この脚本の映画化を検討していたが、彼が「アララトの聖母」にとりかかることになったので、私にこの脚本がまわってきた。個人的には彼は真面目で、プロデューサー的なセンスのあるいい男だと思います。クレジットの経緯については退屈な話になるので割愛しますが、エゴヤンがこの映画に関わってくれたおかけで、私としてはずいぶん助けられました」とのこと。

ウィニペグに住んでいたことのある観客から、“表現者にとってどういう場所に住むかということは大切だが、なぜこの町を拠点にしようと思ったのか”という質問が。マディンは“グッド・クエッション”と言いつつ、こう答えた。「ウィニペグは故郷であり、人生のほとんどの時間を過ごしてきた街です。そこに身を置くことで、生い立ちや過去について内省的になれるし、同時にとても心地よい。他のところに住むのもいいかな、と思いますが、幸い私は今回のように、各地を旅することができますからね。ウィニペグは、北米でもっとも隔離された中規模の都市だと感じています。近くに大都市もないし、東京のように誘惑もないから、仕事に打ち込める。そういう環境のせいか、ウィニペグは人口比でいうと芸術家の数は多いようです」

(取材・文/相馬学)




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