デイリーニュース
TOP<>BACK

2005年11月20日

11.20. 『生誕百年特集 映画監督 中川信夫』トークショー(司会:鈴木健介 ゲスト:若杉嘉津子)

東京国立近代美術館フィルムセンターにて上映中の『生誕百年特集 映画監督 中川信夫』。この日は『人形佐七捕物帖 妖艶六死美人』の上映後にトークショーが行われた。ゲストは『人形佐七捕物帖 妖艶六死美人』『毒婦高橋お伝』『東海道四谷怪談』に出演している若杉嘉津子さん、司会はご自身も映画監督で、中川作品では『怪異談 生きてゐる小平次』の助監督を務めた鈴木健介さん。中川作品の製作現場を知るお2人に、中川信夫監督について、また当時の思い出などをたっぷりと語っていただいた。会場には多くのファンをはじめ、中川監督の息子さんや中川作品でお馴染の俳優、明知十三郎のご家族なども駆けつけ、偉大なる映画監督を偲ぶ貴重なトークイベントとなった。

鈴木「私は中川監督の遺作となりました『怪異談 生きてゐる小平次』の助監督をさせていただきました。晩年18年間ずっとそばにいさせていただいて、いつもお会いしながら中川監督の私的生活含めて接してきました。私は晩年の、映画はなかなか作ることが出来なかった監督にずっと接してきたのですが、若杉さんは中川監督がいちばん脂が乗って次々と名作を作っていかれた頃にご一緒されたわけですね」
若杉「そうです。今上映された『人形佐七捕物帖 妖艶六死美人』(以下『妖艶六死美人』)が時代劇としては初めてです」
鈴木「その前にセリフがなかったけれど『青ケ島の子供たち 女教師の記録』(以下『青ケ島の子供たち』)がありましたね。それから毎年ですか?」
若杉「1年に1本だけですけれど、七夕様みたいに」
鈴木「初めて出会われた時はどんな印象でしたか?」
若杉「初めは、登山帽を被って下駄を履いて腰に手ぬぐいぶら下げていましたから、とても監督さんには見えなくて、撮影所に来ている電気屋さんだと思ったんです。ところがね、監督さんだという事でびっくりしました(笑)。それほど飾らない方でした」
鈴木「私も同じようなエピソードを聞いているんですけど、東映撮影所でテレビを撮っていた時に中川監督が撮影所内を歩いていたら、助監督さんが仕出しのおじさんと間違えて“おじちゃん、ダメだよ。そんな所でうろうろしてちゃ”って言ったそうですよ(笑)」
若杉「私は1年に1本、衣裳合わせ、ホン読みなどを入れて約1カ月弱。それぐらいしかお目にかかっていなかったんです。先生は良くお酒を飲む方なんですが、私は全く飲めないので一緒にお酒を飲むこともなかったですし、普段はお話もしたことがなかったの。それが撮影に入りますと先生の気持ちというのかしら、何も仰らなくても汲み取れていけたというのは何かの因縁でしょうか。そういう巡り合わせだったんじゃないかなと思います」
鈴木「そういう点ではご一緒されていく回数が増すほど、若杉さんは変わっていきましたね。『東海道四谷怪談』では素晴らしいお芝居に昇華されていました」
若杉「あれが出来た時はそれほどと思っていませんでしたけれども。ただお岩が最後に綺麗な格好をして昇天していく。あれは後にも先にもああいう演出方法はなかったと思うし、やはり最後に救われた姿で終わったということは何か後味が良かったのではないかと思います」
鈴木「『東海道四谷怪談』では水の中につけられたり、顔を醜くされたり大変だったと思うのですけど?」
若杉「はっきり言ってね、最初にお岩の役をいただいた時は怖かったです。その前に、相馬千恵子さんが若山富三郎さんと一緒に『四谷怪談』をおやりになったんですよ。ちょうどそれを観ていました時に、“次にお化けの役があったら私に来ちゃうんじゃないかしら”という変な予感がしました(笑)。最初は怖かったんですけれど、そこは女優ですから役を一所懸命やり遂げるのが大事だと思って。うまくやろうとは考えないで、朝、うちの仏壇に手をあわせて“これから撮影に行って参りますけどよろしくお願いします。どうぞお守りください”って、ただそれだけを祈って撮影の現場に行きましたね」
鈴木「宙吊りはどうでした?」
若杉「あれは怖かったですよ。私ね、高い所がダメなんですよ。おかしいでしょ? 全然見た目と違うのよね。でも高い所から吊るされるというのは、いいものじゃないですよね。あの撮影の時は終わったらすぐに家に帰って寝ました。具合が悪くなっちゃって。そのために撮影を遅らせたということはございませんけど、やはり吊るされるとか高い所は苦手ですね」
鈴木「今のお話を聞いていると中川監督ってひどいことばかりやっているように思えますが?」
若杉「そんなことないですよー、いい先生ですよ。大変な撮影の後、監督から呼ばれまして参りますと、登山帽を取って“今日は本当に良くやってくれて有り難う”と最敬礼してくださったんです。もう、それだけで十分!根はとっても優しい監督です。でもね、絶対に表現はなさらないの。何て言うのかな、ひとつひとつ胸にジーンとくるような監督さんでした」
鈴木「大変失礼なことをお聞きしていいでしょうか? ある方のインタビューの中で中川監督と若杉さんはデキているという話がありましたね?」
若杉「ああ、あれね(笑)。それほど息が合ったということで、そう取り上げたのだと思いますけれども、天地神明に誓ってそういうことはございません」
鈴木「この場を借りてきちんと証明されました(笑)」
若杉「それでね、今日はこれから『毒婦高橋お伝』を上映しますよね。本来ならば私の相手役をしてくださった明知十三郎さんともお話したかったんですが、明知さんは3年前の平成14年の12月14日にお亡くなりになりまして、今日は明知さんの奥様と晩年にお生まれになった息子さんがいらしています。息子さんは初めは公務員だったんですけれど、カメラが好きだということで公務員をお辞めになり、新進の写真家としてご活躍されています。これから明知2世だと思って応援してあげてください」
若杉「それから中川先生の息子さんも来ていらっしゃいます」
鈴木「とてもそっくりですね」
若杉「本当に!それで登山帽をお被りになって、手ぬぐいを腰にぶら下げて、下駄を履いていただくと、そっくり先生がお出になっちゃったんじゃないかなというような感じです」
鈴木「あのー、見えません? 誰か頭を叩かれませんでした? 水をかけられた人はいませんか?」
若杉「あ、分かった!先生でしょう?」
鈴木「はい」
若杉「喜んで来ているんですよ」
鈴木「そうです、そうです。先生は気に入った人がいると頭を叩いたり、お酒をかけたりするので、これから皆さんやられるかもしれませんね。実を言いますと、必ず仕事が終わると宴席がありまして、『妖艶六死美人』のキャメラマンだった平野さんとテレビでご一緒していた時に必ず言われたのは“宴席にはヘルメットとカッパを着ていけ”と。要するにお酒をピシャー、ジャーとかけられますから(笑)。そういう先生だったもので、僕の結婚式の時も紋付き袴で上からビールをかけられました。ですから、皆さんもご注意ください。そんなところで、ご質問をうかがいましょうか?」
若杉「そうですね」


質問「お岩をやると祟りに合うと言われていますが、祟りはありましたか?」
若杉「私はなかったですね。やっぱり守られたんですね。祟りがないから今まで生きてたのよ(笑)。でもね、中川先生のこの百年祭。変な話ですけれど、江見ちゃんも亡くなり、天知ちゃんも亡くなった、それから明知ちゃんも亡くなった。女優だったら私とか北沢典子さんが生き残っていますけども、やはり先生の百年祭にこういう話を皆さんに伝えてほしいということで生きているのだと思います。ですから祟りはないと思います」

質問「祟りに合わないためにお参りに行ったんじゃないですか?」
若杉「撮影をする前は『東海道四谷怪談』に限らず必ずお参りに行くんですよ。歌舞伎でもそうですよね。でもそれは形だけのことで、あとは自分の心。人間そうだと思うんですよ。あの醜い姿を見せ物にするというのはあんまり気持ちのいいものじゃないし、やはりいつも心をキレイにするのが大事。怪談ものは斎戒沐浴するような気持ちでやらないと務まらないし、お受けできません。だから私は朝晩、先ほどお話したとおり“やらせていただきます”という気持ちで、あとは何も考えませんでしたから祟りはなかったんじゃないでしょうか」

質問「映画界に入られたきっかけを教えてください」
若杉「ここに私以上の方ってあまりいらっしゃらないと思うので戦争中の話から。初めは銀行員だったんです。戦争中の時ね、三菱銀行だったんです。その時、職場で慰問に行くことになって『男装の麗人』をやりました。それから、終戦になりました時に今度は雪印に勤めたんですけど、そこは職場演劇がすごく流行っていまして、私は初めて『修禅寺物語』の夜叉王の娘・かつらという役をやったんです。その時に新国劇の清水彰さんという方が演出に来ていて、“あなた舞台をやるといいですよ”と言われたんですよね。それでその後、おこがましくも『番町皿屋敷』の青山播磨をやっちゃったんですよ。その時に2回とも常務賞をいただいたものですから、すっかりのぼせ上がっちゃって、昭和21年に『大映の第3期ニューフェイス募集』の広告が出ていたので受けました。1期生が折原啓子さん、2期生に船越英一郎さんのお父様の船越英二さん、3期生が私。度胸の良さが買われまして女優になったんですけど、もともとは素人の芝居を褒められたのがきっかけですね」

質問「最初のお話にも出ました『青ケ島の子供たち』について詳しく教えていただけますか?」
若杉「あれはいつでしたか?」
鈴木「1955年ですね」
若杉「申し訳ないんですけど、ほとんど記憶がないんですよ。台詞がなかったそうです。女教師役だったそうなんですが、記憶が全然ないので…ごめんなさい」
鈴木「若杉さんは東京の学校の先生役でした」

質問「中川監督の演出は他の監督とは違いましたか?」
若杉「中川監督は細かく指示を出さないんですよ。それだけに撮影に入る前は、ある程度自分で役柄をつかんで現場に行きました。監督はただそばへ来て“心だよ、心”と、それだけしか仰らない。どんな形でも、その表現がどうであろうとも、その役の気持ちが出ていればいい。そういう指導をしてくださった監督でしたので、はっきり言うと大変怖いし、難しかったですよ。例えば、手取り足取り“時代劇ならこうやるんだよ”と形を教えていただくとある程度わかりやすいんですけれど、“気持ちで”としか仰らないのでね。いつも心を大事になさった監督さんでしたね」
鈴木「それでちょっと関連して、こういうことがありました。私が『鳴門秘帖』というテレビの時代劇をやっていた時に、出演された方が僕に向かって“あの監督は全然注文してくれないからわからない”と言ったから、“いや、それがいちばんいいんじゃないですか”と答えるしかなかった。でも僕はその人、損をしたと思っているんですよ。もうひとつ、中川監督はカットを変えてきますね。お芝居ができない人のアップをそのまま撮ると作品的にもマイナスになりますし、演じた人もマイナスになるし。そういった配慮をされてやっていた。だからある意味では非情な世界というか、演出的には一見任せるけれども、対応できなければさり気なくカットを変える。それが中川演出のひとつだと思います。
それにしても先生は人が好きで、人を大事にする方でしたよね」
若杉「本当にそうです。私が映画界を辞めた後も年賀状をいただくんですけれど、筆で“お前のお岩は世界一だ”と書いてくださったりね」
鈴木「もう時間がありませんが、今日はありがとうございました」
若杉「ありがとうございました」

来年 ラピュタ阿佐ヶ谷で中川監督の特集上映の予定あり

(取材・文:北島恭子)

投稿者 FILMeX : 2005年11月20日 14:00


 
up
BACK
(C) TOKYO FILMeX 2005