10月28日から毎週水曜日の夜にゲストをお迎えし、映画にまつわるさまざまなお話をうかがってきた水曜シネマ塾。最終回となる25日は、今年の東京フィルメックスの審査員を務め、特別招待作品として最新作『春風沈酔の夜』が上映される中国のロウ・イエ監督が登場した。会場は監督の公開作はほとんど見ているという熱心なファンでいっぱい。トーク内容への期待が伝わる心地よい緊張感のなか、イベントはスタートした。
「まず個人的にうかがいたかったのですが……」と前置きし、市山尚三東京フィルメックスプログラム・ディレクターが、ロウ・イエ監督が中国の映画専門大学である北京電影学院に入学し、映画監督を志した経緯をたずねた。
小学校、中学校、高校とずっと上海で過ごし、子どもの頃から絵を描くことが大好きだったというロウ監督。実は第一志望は電影学院ではなく、北京の中央美術学院だったという意外な事実を明かした。美術学院を志す傍ら、上海美術映画製作所でアニメ―ションの製作に携わっていたという。その頃「銀河鉄道999」など、日本のアニメを数多く見たのだとか。その後、北京に受験に行き、中央美術学院のほかに北京電影学院を併願。結果、美術学院は不合格で、電影学院に入学することになったという。とはいえ、電影学院も大変な難関大学。「そこで美術学院にも通っていたら“映画監督ロウ・イエ”はなかったわけですね」(市山Pディレクター)。「落ちてよかった」というのも失礼だ
が、それも何かの運命だったと思わせる出来事である。
子ども時代から両親に連れられて、その頃よく学校などで上映されていた教師や芸術家向けの「内部上映映画」を見に行ったというロウ監督。当時の中国はビデオもDVDもその再生機材もなく、一般の人々が外国の映画に触れる機会などほとんどなかった時代だ。幸いロウ監督はヒッチコック『鳥』や、木下恵介監督の『二十四の瞳』などを見る機会に恵まれた。本格的に映画をたくさん見始めたのは大学に入ってから。子ども時代に見た名作を改めて見直し、非常に感慨深いものがあったという。
大学時代は日々映画浸けの生活。なかでも、60年代のフランスのヌーヴェル・ヴァーグ、そして日本のヌーヴェル・ヴァーグに当たる時代の作品を見られたことが印象に残っていると振り返る。「黒澤明監督や大島渚監督の作品を初めて見たのもちょうどその頃だった」という。
ロウ監督といえば、チャン・ユアンらとともに中国映画界では「第6世代」と呼ばれる監督に位置付けられる。同じ時期に同じキャンパスで学生時代を送った世代だ。「仲間うちで映画について議論したりしのたですか?」と市山Pディレクターが話を振ると、「毎週いろいろ映画を見て、宿舎に帰るとお酒を飲みながら見てきた映画をけなしました(笑)。主に中国映画をけなすんです」と思わず懐かしそうな笑顔に。“口撃”の対象になったのは80年代の中国映画だったそうだが、逆に好きだったのは60年代のヨーロッパ映画や日本映画だったとか。また、チャン・イーモウやチェン・カイコーらに代表される「第5世代」の中国監督の初期の作品も好んで見ていたというが、「だんだん好きではなくなってきた」と現在の中国映画への憂いものぞかせた。
大学を卒業後、3年で監督デビューを果たしたロウ監督。当時はインディペンデントで撮る、という選択肢はなく、「どうしてもどこか映画製作所の『看板』のもと、許可証をとってから撮る必要があった。この許可を得るまでに非常に時間がかかり、初長編劇映画『デッド・エンド 最後の恋人』(「中国映画祭’95」で上映)の際は1年も待ちました」とその時の苦労を語る。
当時から中国政府の監督・許可を一切無視して撮っていたチャン・ユアンらが「地下映画」の監督だとすれば、ロウ監督は「地上」にいたといえる。選択肢はどちらか一方しかなかった。
また、やっと撮り終えても、同作にはなかなか上映許可も下りず、2年後にやっと上映許可と映画祭参加の許可が下りたという。市山Pディレクターも90年代、当時アジア作品の選定を手がけていた東京国際映画祭に同作を招待しようと試みたが、中国政府とのやり取りの末、結局出品は取り下げられてしまったという裏話を披露。しかしロウ監督は、「われわれ第6世代の監督にとって、上映や映画参加が認められるまで2~3年待つのは普通のことだった」と当時の中国映画界の複雑な裏事情を語った。
『デッド・エンド 最後の恋人』ではすれ違ってしまったロウ監督と市山Pディレクター。最初にふたりが出会ったのは、ロウ監督が『ふたりの人魚』(00年)のラッシュのビデオを携えて参加していた釜山(プサン)国際映画祭だった。後に同作は、記念すべき第1回東京フィルメックスに参加、グランプリ作品に選ばれる。釜山映画祭には「ポストプロダクションの資金調達に来ていた」というロウ監督。同作も国家広播電影電視総局(以下、電影局)による脚本審査をパスした「地上映画」であったものの、撮影終了とともに資金をすべて使い果たし、ポストプロダクションの資金繰りに奔走していたところだった。結局ドイツのプロダクションと日本のアップリンクがプロデューサーとして出資。半年におよぶベルリンでのポストプロダクション作業を経て、完成にこぎつけた。
この『ふたりの人魚』がロウ監督の人生において大きな転機となる。2000年のロッテルダム国際映画祭でタイガー・アワード(最優秀作品賞)を受賞。ヨーロッパで大変な人気を博すこととなる。
「映画祭で皆さんに気に入ってもらえるなんて、思いがけないことだった。それに私はポストプロダクションの作業に疲れきり、もう作品を見たくないほどでしたから」と、嘘とも本音ともつかないコメントで、会場からの賞賛の眼差しを受け流したロウ監督。また、同作の製作にあたった「ドリーム・ファクトリー」は、ロウ監督ともう一人の女性プロデューサーで立ち上げたインディペンデントの映画製作会社。「自分たちの作りたい映画を作ろう」という思いで起こした会社であるといい、穏やかな佇まいのなかに、決して浮かれることのない一本筋の通った意思の強さを垣間見せた。
一本一本、各作品にまつわるエピソードへの興味は尽きないところだが、聞きたい話が山積みなのは観客も同じこと。続いて行われたQ&Aでは、ロウ監督作の日本公開時の邦題に対する好意的な意見や、北京電影学院の入学試験の様子など、ユニークな回答を引き出す質問が相次いだ。
しかし、ロウ監督といえばやはり中国当局による「製作禁止処分」に関する質問を避けては通れない(中国当局の許可なく『天安門、恋人たち』を2006年のカンヌ国際映画祭に出品し、5年間の映画製作禁止処分を受けている。電影局は同作を許可しない理由を「技術的な問題」だとしている)。ゆえに今回、東京フィルメックスでも上映される最新作『春風沈酔の夜』は、もちろん「地下映画」となる。客席からは「中国国内で上映されないというだけで、カンヌのコンペティション部門には出品してもよいのですか?」という質問が飛んだ。今年のカンヌで見事脚本賞を受賞した同作。ロウ監督によれば、「厳密に言うとダメ」だそう。しかし、「『天安門、恋人たち』以降、私と電影局との関係は切れているので、何をしようと自由です」とばっさり斬った。
社会・政治制度の異なる日本にいると、「活動禁止処分」と聞いてもぴんとこない。「アンダーグラウンドで映画を撮影しているとき、何か妨害工作や取締りを受けることはあるのでしょうか?」と具体的な質問を投げかけた市山Pディレクター。これに対し、「“官”を離れて民間のルートで作れば、まったく政府も手出しはできない。撮影は以前と変わらず続けられる」と答えたロウ監督。ただ、いつでも当局によって撮影を停止させられるリスクは負っているという。
残念なことに、中国では公開できない『春風沈酔の夜』だが、ほかの国で見ることについてはなんら問題がない。しかし、そこにも中国映画界が抱えるもう一つの問題点があった。
「昔から問題になっているのですが、多くの作品が海賊版DVDとして手に入る。しかし海賊版を通じてしか見ることができず、映画館で上映できない状況にある。中国国内では、上映を実現するため本当に多くの監督たちが当局の審査をパスするべく腐心しているのです」とロウ監督は語る。電影局を納得させるため、泣く泣く素晴らしい出来のカットを削除したり、時間を割いて関係者の説得に当たったり……。こういった事態は、本来全力を創作活動に注ぎ込むべき監督の力を消耗させ、とりわけ若い才能の芽を潰しかねないと現状を憂う。ロウ監督自身、『パープル・バタフライ』(03年)公開に当たっては、撮影後の審査で40数カ所に及ぶ修正事項を提示され、1カ月にわたる話し合いの末、最終的に3カ所の修正で当局側を説得した経験を持つ。これらの苦労から、「なおさら『春風沈酔の夜』は気楽な仕事でした」と微笑む。プロデューサー、スタッフとお酒を飲みながら「さあ、撮ろうか!」というノリで撮影を始め、その1年後にはこの作品が完成したという。
話題はいよいよ最新作の核心へ。『春風沈酔の夜』は、中国の近代小説家である郁達夫の同名小説を原作としている。「高校生の時にこの小説を読んだ。そこに描かれていたのは、人と人の間のなんともはっきりしない感覚。愛なのか、それとも愛と呼べないのか、非常に曖昧な雰囲気。創作において、そこから私は非常に啓発を受けた」とロウ監督。劇中にも郁達夫の小説が引用されるので、鑑賞される方は要チェックだ。
大学時代に60年代ヌーヴェル・ヴァーグの映画を好んでいたというロウ監督。「複数の男女の物語であるフランソワ・トリュフォーの『突然炎のごとく』(62年)にインスパイアされたとうかがった」(市山Pディレクター)とたずねられると、「ヌーヴェル・ヴァーグの影響がかなり大きい」と肯定。「ヌーヴェル・ヴァーグの特徴だと思うのは、カメラと被写体の間に何も存在しないところ。最近の映画製作は、多額の資金を注ぎ込み、商業化に走るようになってから映画の基本的なことを忘れていることが多々ある気がする。映画を撮る最初の動機というのは、そこにいる人物の顔をしっかり撮りにいくことですよね。映画が始まった100年前と比べて技術は進歩し、今はハンディーカメラでそういった対象を自分で撮れるようになりました」と熱意を込めて語る。『春風沈酔の夜』は、ロウ監督が初めて長編の劇映画をデジタルで撮影した作品だ。家庭用のデジタルビデオカメラを使用しており、その効果には十分に満足しているそう。失敗といえば、「(フィルム交換の必要がないため)カメラマンがカメラを回しすぎてしまい、素材が膨大な量になって編集に苦心した(笑)」とか。作り手の熱意や喜びが伝わってくるエピソードだ。
トークも終盤にさしかかり、再びマイクが客席へ。カンヌで『春風沈酔の夜』を見たという参加者から、脚本賞を受賞したその脚本をめぐるエピソードをたずねられると、「実は完成を待たずに撮影に入りました。現場で撮りながら、脚本家がアシスタントと一緒に仕上げていったのです」との意外な答えが返ってきた。脚本家のメイ・ファンさんは、ロウ監督と仕事をし始めてすでに長い。あ・うんの呼吸といったところだろうか。
また、現在準備中の新作について問う声もあがった。「中国の女性作家の小説を原作にした物語です。パリ在住の女性作家の小説なので、中国人女性がパリで恋をする、という内容になります」という、楽しみな内容を明かしてくれた。
9歳の息子と「来年『ふたりの人魚』を見せると話し合った。やっぱり早かったかな?」といった微笑ましいエピソードや、「作品に自分の普段よく聞く好みの音楽を使用する」といったこだわりまで、様々な顔を見せてくれたロウ監督。また、「中国が国策として映画産業を世界に売っていこうとしている。今までの映画や観客の好みなどをコンピューター分析にかけ、“売れる映画”を作ろうとする会社も出現していると聞くが、今後の中国映画界はどこへいくのか?」という大きな問題について客席から質問がされた時には、「実現できるならよいことだと思います。ただ、そこに様々なジャンルの映画が同時に存在することが、映画産業の発展には必要だ」と真摯な表情で答えるシーンも。「さまざまな監督、さまざまなプロデューサーがいるべき。それは、ひいては観客に対する敬意だと思います」――そう続けた言葉には、ロウ監督にしか言い得ないずっしりとした重みがあった。
『春風沈酔の夜』は26日(木)13時20分から第1回目の上映を、28日(金)18時25分から第2回目の上映(Q&A付き)を予定している。
(取材・文:新田理恵/写真:金沢佑希人)
投稿者 FILMeX : 2009年11月25日 23:00