11月27日、有楽町朝日ホール11階スクエアにて「ルーマニア映画の現在」と題してトークイベントが行われた。ルーマニアの若手監督たちの作品が、近年国際映画祭を席巻している。カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞したクリスティアン・ムンギウ監督の『4ヶ月、3週間と2日』(2007)も記憶に新しいが、日本で紹介される機会はまだ少ない。来日中のルーマニア映画研究者、マニュエラ・チェルナットさんをゲストに迎え、ルーマニア映画の過去と現在について、レクチャーしていただいた。
ルーマニアで初めて映画が上映されたのは、1897年。それ以降、20世紀初頭から第二次世界大戦期にかけ、ルーマニアでもさかんに映画が作られた。ソ連軍の侵攻を経て共産主義政府が成立すると、他の東欧諸国と同様、体制によって映画制作が統制されることになった。
「大規模なスタジオが作られ、新世代の監督やキャメラマン、音響技師や俳優が現れました。一方で、検閲との不断の戦いが強いられることになりました。ルーマニア映画の発展に大きく寄与したのは、国立映画大学の存在です。1965年以降、映画業界で働くすべての人々が、この大学を卒業しています。映画の製作本数の上で最も重要な年は、1980年です。38本の長編、250本の短いドキュメンタリー、アニメーションは長編を含めて約100本が作られました。いくつかは、日本でも紹介されています。この黄金時代を担ったのは『70年世代』と呼ばれる新しい世代でした。彼らは黒澤、溝口、小津、新藤兼人といった日本の巨匠の影響を強く受けていました。映画作家たちはイデオロギーの押しつけとなることから逃れるため、あらゆるショットが絵画を思わせるような非常に美的な作品を作ることに向かいました。しかし同時に、その語りの表層の奥には、隠されたものがありました。観客と作家の間には連帯がありました。なぜなら、実際のところこれらの監督の映画は政治制度をひそかに攻撃していたからです。そのようなメッセージは隠喩的な手法で表現されていました。残念ながら当時の映画は、海外で発表されたり、映画祭に出品されることはほとんどありませんでした。そのような場合でも、監督がともに行くことはできず、宣伝をすることもできませんでした。一方で、ソ連やポーランド、ハンガリーの映画の場合は国際映画祭に多くの人が派遣され、大規模なパーティーを開くなどしてアピールが行われていました」
国際的には長く不遇の時代が続いたが、1989年の革命後に大きな変化が訪れる。
「チャウシェスク政権が倒れてから初めて、ルーマニア映画は国際市場に打って出たのです。しかし1990年、かつての共産圏での映画制作は、ゼロの状態に落ち込みました。以前は検閲制度と戦っていた監督たちが、今度は銀行を相手にしなくてはならなくなったのです。幸いにも、この変化の時期にも、国立映画大学では制作が続けられており、ニューヨーク、カルロヴィヴァリなど世界各地の映画祭で賞を取っていました。このようにして新しい世代のPRが行われたというわけです。非常に才能ある監督を輩出しているだけでなく、また素晴らしい撮影監督も出ていて、最近の卒業生の一人は、コッポラ監督の元で仕事をしています。俳優もまた、国際的なキャリアを積んでいます。『4ヶ月、3週間と2日』の主演女優アナマリア・マリンカはロンドンで活動していますし、また、『ラザレスク氏の最期』(2005年)の女優も、世界的に有名になっています」
2000年代に入って国際映画祭で注目を集めるルーマニアの作家たちは、90年代に学生時代を過ごしたこの世代である。
「強調されるべきなのは、2000年代のニューウェーブは、かつての映画作家たちがとっていた隠喩的手法を拒否しているということです。彼らはよりダイレクトな、非常にリアリスティックな手法を好んでおり、私はこれらを『マキシマルな社会的洞察を備えたミニマリスト的表現』と定義しています」
若い世代によって新しい表現が試みられていることが、ルーマニア映画の躍進を支えているようだ。日本でも、多様なルーマニア映画が上映されることを期待したい。
(取材・文:花房佳代、写真:金沢佑希人)
投稿者 FILMeX : 2009年11月27日 17:00