第10回東京フィルメックスのコンペティション作品『セルアウト!』は、マレーシアの大企業を舞台に、金儲け至上主義に翻弄される人々の姿を描いた才気あふれるブラック・コメディ。製作・監督・脚本・劇中歌の作詞作曲まで手掛けたヨ・ジュンハン監督にお話を伺った。
ヨ監督の長編デビュー作となる今作はベネチア国際映画祭での上映を皮切りに、世界各地の映画祭で好評を博してきた。まずは、映画祭での経験について伺った。
「マレーシアのような国の映画が一般公開されにくい国の映画祭で上映されるのは、非常に貴重な機会だと思います。映画を作ったときは、世界の観客のために何か発信しよう、という意図はまったくありませんでした。でもベネチアでは、現地の人、特に若い世代の反応は熱狂的でした。イタリア人の若者なんて、私の想定していなかった観客。そのとき、世界中の人たちが同じ感覚を持っているんだ、と気づかされた。素晴らしい気分でした」
また、「映画祭は、他の映画作家や、映画が大好きな人々に出会える場所。映画祭の主催者たちも、とても映画を愛している」と笑顔を見せた。
『セルアウト!』は2009年7月にシンガポールとマレーシアで同時公開された。シンガポール国際映画祭での上映から1週間後だったという。
「映画祭での評判が良く、メディアにも取り上げられたので、シンガポールでの興行成績は悪くありませんでした。マレーシアでは投資した会社が全然宣伝費をかけてくれなくて、唯一、系列のケーブルテレビ局で予告編を何度も流してくれた。でも、系列であるにも関わらず広告料が発生するといって、劇場名や日程を入れなかったんです(笑)。だからそのチャンネルを見て劇場に足を運んでくれた人は少なかったようです。私は名前が知られた監督ではありませんし。でも、観た人は非常に好意的な反応を示してくれたので、口コミという形で、結果的に幅広い層の観客に観てもらうことができました」
監督自ら「マレーシア人について描いた映画」と語る。とはいえ、主人公のエリック・タン、ラフレシア・ポンをはじめ、この作品の主要な登場人物はすべて中華系の人々。
「もしも私が他の民族の人々を揶揄するような作品を作ったら、微妙な問題になったでしょう。私がその民族ではなく、その民族が置かれた状況だや文化的背景をよく理解していない場合は、ユーモアに転化してしまうことはとても危険です。マレー系でもおかしくないような役もありましたが、そういったわけで中華系になったんです」
複雑な民族関係への配慮がうかがえるが、「中華系である以前にマレーシア人である」というのが監督自身の意識であるようだ。
「驚いたことに、マレー系の人々はこの映画を非常に気に入ってくれたんです。マレーシアの映画局では「マレーシア映画」の定義を定めていて、マレー語であること、マレー文化を表すようなシーンが盛り込まれていることなど、いくつかの規定があります。この映画は全編英語。マレー語はほとんど話されていなくて、悪魔祓いのシーンで少し出てくるだけ。それなのに、ジャーナリストはこの映画を「いままでにない、非常にマレーシア的な映画」と評してくれました。マレー語新聞でさえ、そう言ってくれたんです。中華系の人々も、他のマレーシア人も、多くの価値観を共有しています。私が子どもの頃は、民族の違いなどほとんど考えないで育ちました。名前がマレー系だとか中華系という違いを意識するくらいで、個人としてつき合っていたから。最近になって民族間の差異を強調しようとする傾向が強いのは、それを政治的に利用しようという動きがあるためだと思います」
エリックとラフレシアを追いつめるFONY社の二人のCEOは、民族が特定できないように名前を与えず「CEO1」「CEO2」という役名となったという。拝金主義の権化として戯画的に描かれている彼らだが、どこか愛らしく、哀れみすら呼び起こす魅力的なキャラクターだ。
「登場人物について、良いやつ、悪いやつ、という明確な性格づけはしたくありませんでした。主人公のラフレシアやエリックも自己中心的な面があって、両義的な存在として描きたかったんです。会社って実体がないものですよね。法律上、書類上存在しているだけ。それなのに、そこに勤めている人たちは、あのCEOたちも含め、会社の下僕のようになってしまう。今日、会社のトップに立っていても、明日には病気を理由にクビになってしまう。私の設定では彼は会社の創設者なんですが、そんな重要な人物でもクビになって、社長室から持ち帰るものはスーツケースひとつ。誰もが一人の個人であって、その人が社会の中でどう生き抜いて行くか、ということを描きたいと思っています」
自分の理想とする完璧な機械を作るか、会社に利益をもたらすために欠陥を組み込むか。エリックは思い悩んだ末に、理想主義者と現実主義者、二つの人格が分裂してしまう。「生きていく上で何を重要なものとして選び取るか」という誰もが抱える葛藤を、ヨ監督はブラック・ユーモアを交えて描き出す。
「芸術への愛を貫くと、エリックのようにお金が払えなくなってしまう」と笑う監督自身、撮影中は映画作家とプロデューサーという「二つの人格」に悩まされたという。
「ときには監督として「この場面は撮り直したい!」と思うこともありましたが、そんなときプロデューサーの方の私が、撮り直しにかかる費用を計算してしまうんです(笑)。私にとって良かったのは、キャメラマンがクリエイティブな面だけを考える役割を担ってくれていて、「予算が足りないなら僕のギャラを半分にしたっていいから!」と、背中を押してくれたこと。自分のギャラをゼロにするまでは、君のギャラを減らすわけにはいかないって答えましたが」
理想主義者のエリックを排除する、という結末には「あまりに現実主義に偏ると、社会はいずれ理想主義を殺してしまうことになる」という教訓的な意味を込めたという。だけど映画を公開するときに気づいたのは、もう実際にそういう事態になってしまっているんだということ。
「劇場公開するとき、配給会社は映画を観ないうちから、この作品のように映画祭で成功を収めた映画は絶対にヒットしない、と言ってきました。それで、こういう映画だったらヒットする、という例を挙げてきた。私にはそんな映画は低俗で、誰かの真似をしているだけだと思えました。そうしたら「真似?何がいけないんだ、真似をすべきだ!」と言ってきたんです(笑)」。模倣しろ、とは、エリックがCEOに言われた台詞そのもの。映画に描いた通りのことが、目の前に起こっていたわけだ。
「多くの人は非常に自己中心的で、自分の貰いたいものだけ貰えればいいと思うかもしれない。でも私は、貰ったら、それをきちんと返すという責任は誰にもあると思うんです。映画制作の資金を提供してもらったら、その投資を回収できるように協力しなければならない」と語るヨ監督。作品で見せた切れ味鋭い皮肉からは意外なほど、誠実で繊細な素顔をのぞかせた。葛藤は今後も続くが、その中から新たな作品が生み出されるに違いない。
(取材・文:花房佳代/写真:小林鉄平)
投稿者 FILMeX : 2009年11月28日 19:27