香港映画祭レポート&シンガポール映画祭開幕記事 掲載中です

 「世界の映画祭だより」にて、市山尚三プログラミング・ディレクターによる香港国際映画祭のレポートを掲載中です。今回は映画祭本体の他で様々な新しい取り組みがなされた香港ですが、どのように変わってきたのか、ぜひご覧ください。
 また、今週より開幕するシンガポール映画祭の開幕記事も掲載しました。こちらもあわせてご覧ください。
<第31回香港国際映画祭 レポート>
<第20回シンガポール国際映画祭 開幕>

第31回香港国際映画祭 レポート

 3月20日から4月11日まで開催され、今年で31回目を迎えた香港映画祭はその規模の点で大きく変貌した。一つは、昨年は分裂して開催された映画マーケット「フィルマート」が今年は3月20日から22日まで開催されたこと、もう一つは、今年から新たに始まった「アジアン・フィルム・アワード」の授賞式が3月20日に並行して行われたことである。
 香港映画祭は世界各国の新作劇映画、ドキュメンタリー、アニメーションからクラシック作品、更に香港の学生映画に至るまで300本を超える映画が上映される大規模な映画祭だが、基本的には香港の映画ファンに様々な映画を見せる機会を提供することを主旨としており、会場も香港市内の幾つかの地域に分散している。一方、「フィルマート」は香港コンベンションセンターを会場とし、その中で映画の権利を売買するマーケット、製作者や監督が新企画をプレゼンする企画マーケット「HAF」、更に様々なセミナーなどが開催される。以前、6月に開催されていた時は今一つその存在価値がはっきりとしなかったが、3月に開催されるようになってからはヨーロッパの主要配給業者も訪れ、“プレ・カンヌ・ミーティング”としての役割を果たしつつあるように思える。
 今年はこれに「アジアン・フィルム・アワード」という新たなイベントが加わった。中谷美紀が『嫌われ松子の一生』で女優賞を受賞したことが日本でも多く報道されたこの賞は2006年にアジア地域で製作された映画を対象に各賞が選ばれる。1988年に始まった「ヨーロッパ映画賞」のアジア版とも言うべきものである。香港コンベンションセンターの大ホールで行われた授賞式にはアンディ・ラウ、ソン・ガンホ、ピ(Rain)、チャン・チェンらノミネートされたスターに加え、トニー・レオン、イ・ビョンホン、ミッシェル・ヨーらがプレゼンターとして来場し、華やいだ雰囲気の中、各賞が発表された。最優秀作品を受賞した『グェムル』は男優賞、撮影賞、特殊効果賞も含めた4冠を達成。監督賞は『長江哀歌』(原題:『三峡好人』)のジャ・ジャンクー、脚本賞は『メン・アット・ワーク』のマニ・ハギギ、編集賞は『世紀の光』のリー・チャンターティクン、音楽賞は『オペラジャワ』のラハイユ・スパンガと、昨年の東京フィルメックスの上映作品が数多くの賞を受賞した。
 香港映画祭と「フィルマート」、「アジアン・フィルム・アワード」は、会場が異なることもあり、完璧に連動したイベントとは言い難い。しかし、例えば『さくらん』で香港映画祭に参加した蜷川実花監督、出演の木村佳乃、安藤政信が「アジアン・フィルム・アワード」のプレゼンターとして登場したり、「HAF」に新企画『東京ソナタ』で参加した黒沢清監督が香港映画祭での『叫』の上映後に観客とのQ&Aを行ったりするなど、参加ゲストが複数のイベントにクロスオーバーすることで一体感を持たせようとする努力はなされていた。少なくとも、マスコミの注目度の高い「アジアン・フィルム・アワード」を香港映画祭のオープニングと同時に開催したことは、香港映画祭を内外に認知させることに大きく役立ったことは間違いない。上映作品の傾向にそれほど大きな変化がなかったにも関わらず、今年の香港映画祭は観客動員が飛躍的に向上したという。「アジアン・フィルム・アワード」の開催がその要因の一つであったことは想像に難くない。
 香港映画祭本体は、ジョニー・トー作品の脚本を手がけてきたヤウ・ナイホイの監督デビュー作『跟蹤(Eye in the Sky)』、パク・チャヌク監督の『サイボーグでも大丈夫』というベルリン映画祭で話題となった2作品で開幕した。プレミア上映にこだわっていないこともあり、上映作品はこの1年間の世界の映画祭で上映されたものが多く、アジアのデジタル作品を対象とするコンペティションも、マレーシア映画『愛は一切に勝つ』が金賞、中国映画『檳榔(Betelnut)』が銀賞と、昨年のプサン映画祭のニュー・カレンツ賞を分かち合った2作品が受賞した。
 今回プレミア上映された作品のうち最も際立ったのが、ジャ・ジャンクーの短編『我們的十年(Our Ten Years)』だ。これは中国の新聞「南方都市報」の依頼で作られた8分の短編で、山西省を走る列車を舞台に二人の女性の数度にわたる出会いを描きつつ、10年の歳月を見る者に感じさせる傑作だ。出演はジャ・ジャンクー作品常連のチャオ・タオと、今中国で最も注目されている若手女優の一人ティエン・ユェン。全編を彩るリン・チャンの音楽も素晴しい。この作品と同時上映されたフルーツ・チャン監督の30分の短編『西安故事(Xi’an Story)』も、西安の街を舞台に離婚寸前の若い夫婦が思わぬ出来事から愛情を取り戻すまでを描きつつ、ラストに思わぬ仕掛けをほどこした佳作であった。また、『趙先生』が日本でも公開された中国の映画作家ルー・ユエが1999年に撮影し、その後検閲のためにお蔵入りになっていた長編映画『小説(The Obscure)』がワールド・プレミア上映されたのも話題となった。ドキュメンタリーとドラマを巧みに融合した作品で、阿城、王朔ら現代中国文学を代表する作家たちが登場するのも興味深い作品だ。
 地元の映画ファンに向けてのイベントとしては確実に定着している香港映画祭だが、今年行われた外へ向けての拡大への試みは大きな成果をあげたと言える。来年以降もこの規模が継続するようであれば、ベルリン映画祭とカンヌ映画祭の中間のミーティング・ポイントとして、国際的にも大きな意味を持つ映画祭となることは間違いないだろう。
(報告者:市山 尚三)

第20回シンガポール映画祭(4/18-4/30) 開幕

シンガポール映画祭 公式サイト
第20回シンガポール映画祭では、40か国から300作品(ワールド・プレミア4本、インターナショナル・プレミア4本、アジア・プレミア16本)が上映される。
オープニングは、スリランカのPrasanna Jayakody監督の長編第一作「Sankara」。
クロージングは、「オペラジャワ」インドネシアのガリン・ヌグロホ監督。
Silver Screen Awardsの対象となる、アジアの長編映画のコンペティション部門は、11作品。中東からインド、東南アジア、韓国、中国などからの幅広い作品がラインナップされ、シンガポール映画「Solos」やフィリピン映画「The Woven Stories of The Other」などの新進監督も紹介される。また、昨年の東京フィルメックスの上映作品「アザー・ハーフ」(イン・リャン)、「スクリーム・オブ・ジ・アンツ」(モフセン・マフマルバフ)、「オペラジャワ」もプログラムされている。
Asian Cinema部門では、日本から廣木隆一監督の「M」、他にインドネシアをはじめ東南アジア作品が目立っている。
また、5つの特集上映が組まれており、特に第20回記念特集として歴代のシンガポール短編コンペティション受賞作37本を上映する。
他に、没後25周年ファスビンダー特集(11本)、音楽ドキュメンタリー映画(8本)、アラブ映画特集(7本)、エジプトのノーベル文学賞受賞作家で、昨年他界したナギーブ・マフフーズ原作の作品(2本)が上映される。
第20回を迎えたシンガポール国際映画祭は、東南アジアにおける最初の国際映画祭として東南アジアのハブとなり、ネットワーク作りを支えてきている。
 また、シンガポール自国の映画をバックアップして、短編コンペティションでの顕彰やプレミア上映などにより、エリック・クーやロイストン・タンなどの監督を紹介してきている。長編劇映画の製作本数が年間数本程度というシンガポールの映画状況ではあるが、活性化を促す機会を作り、地道にサポートを続けている。
 なお、特筆すべき点として、1987年の創設以来、チェアマンGeoffrey Malone氏とディレクターPhilip Cheah氏が継続して任にあたっており、映画祭としての一貫したベースを固めて活動している。
(報告者:森宗厚子)

横須賀美術館に4月28日、谷内六郎館がオープン!

 東京フィルメックスでは、2001年の第2回よりメインビジュアルに谷内六郎さんの「虹色のタングステン」をモチーフとしています。週刊新潮の表紙を、その創刊号から亡くなる81年までの間、1,300枚を超える絵が飾りました。生まれ育った東京の原風景を表現した作風に、懐かしさを感じる方もたくさんいらっしゃるかと思います。
 最近でもNHKの「みんなのうた」にイラストが使用されたり、いまもなお愛され続けている谷内六郎の世界。
 東京フィルメックスの「顔」となっている「虹色のタングステン」の原画は、黒一色で描かれた素朴な作品です。谷内さんが少年工として勤務していた電球工場で見たイメージからふくらませたという、タングステン電球の中に天使が入っている、愛らしさにあふれた作品。
 映画祭のメインビジュアルでは、そこに発光のイメージを加えたり、はたまた天使がフィルムのコマにおさまったり、劇場のスクリーンに映し出されたり、大きな手につまみあげられたり、お花の形になったり、虹色に染まったり…と、いろいろな輝きをみせてくれました。
 さて、今年はどんな風に天使があらわれるでしょうか。
 また、今月28日に横須賀に新しくオープンする横須賀美術館には、「谷内六郎館」が入ります。たくさんの作品の中から展示を構成し、映像や音楽を使った企画も予定されているようです。
 建物もユニークで、目の前には海が広がるというロケーション。ぜひ、一度、訪れてみてはいかがでしょうか?
<横須賀美術館>
<谷内六郎公式サイト-ROKU>

「キネマ旬報」にて、ベルリン映画祭での岡本喜八特集レポート

 ただいま発売中のキネマ旬報4月下旬号にて、佐々木淳さんによる「ベルリンでの岡本喜八」レポートが掲載されています(P.162-165)。昨年の国立近代美術館フィルムセンター共催による特集上映がきっかけとなって、今年2月のベルリン映画祭フォーラム部門で、9本の特集上映が行われました。
 ヨーロッパでは初の本格的な特集となる岡本喜八監督に、どれだけの注目が集まるかと期待されましたが、予想を上回る反響を呼び、大変な成功を収めました。レポートでは、今回の特集を実現したフォーラム部門のディレクター、クリストフ・テルヘヒテ氏や、岡本みね子夫人、またベルリンの観客からのコメントを紹介している他、東京フィルメックスの林 加奈子ディレクターやフィルムセンターの岡田秀則氏が語る、「共催の意義」や「海外へ日本映画を発信する重要性」、「フィルム・アーカイブの活動について」なども紹介されています。
 このベルリンでの好評が一過性のものに終わらず、世界中で喜八ブームを巻き起こすことを願っています。ぜひ、ご覧ください。

英語字幕付き上映会 5/25~5/27 開催!

 東京フィルメックスでは、国際交流基金主催の英語字幕付き上映会に、企画・運営での協力を行っています。これまでに7回を実施、多くの外国人、日本人の観客に英語字幕で日本映画の傑作を楽しんでいただきました。
 そしてただいま、5月25日-27日の日程で第8回を開催すべく準備を進めています。プログラムなどの詳細は、決定次第、この事務局だよりやメールマガジンなどでお知らせしますので、どうぞご期待ください。
 今回は、会場も前回とは変更される予定です。どうぞ、お間違えなく。

「マキシモは花ざかり」が上映されます!

 昨年の東京フィルメックスのコンペティション部門で上映された「マキシモは花ざかり」が、今週末から下北沢で開催される「アジアン・クイアー・フィルム&ビデオ・フェスティバル」でクロージング上映されることになりました。
 来日時のアウレウス・ソリト監督は、とにかく陽気!な方で、会場のロビーにいらっしゃると、一瞬にしてその場が華やぐような印象がありました。映画の中のマキシモに元気をもらう、まさにそんな魅力的な個性の持ち主。観客との質疑応答では、この映画を製作した経緯や、撮影に使用した小型カメラの利点など興味深いお話をしていただきました。特にマキシモとビクトルを演じた役者のオーディションの裏話は、とてもおもしろいエピソードでした。
 沖縄にも何度か滞在したことがある監督は、フィリピン島嶼部の先住民族についても興味がある、とおっしゃっていました。「世界の映画祭だより」でも既報の通り、ベルリン映画祭のフォーラム部門でプレミア上映された新作「Tuli」では、その先住民族をモチーフに描き、大変な話題を集めました。
 映画祭で見逃した方も、ぜひこの機会にご覧ください!
<「マキシモは花ざかり」質疑応答>
<「マキシモは花ざかり」動画レポート>
<「Asian Queer Film & Video Festival in Japan 2007」公式サイト>
4月20日(金)20:50~ シネマアートン下北沢
*クロージング作品

第57回ベルリン国際映画祭 レポート

 ほとんどすべての物事がそうであるように、映画祭についても、他の映画祭との様々な関係性の上で成り立っている側面がある。たとえば、あるひとつの映画祭のプログラムについて、それがどうしてそのような内容に落ち着いたのかということを検証しようとすれば、そのような視点を抜きにして考えるのは現実的にはとても難しいだろう。
 つまりはこういうことだ。国際映画祭の世界では、映画祭同士の情報交換のネットワーク(のようなもの)が存在している。それは主に人と人との繋がりを基盤にしているものだ。そしてまた、それとは違うレベルで、表からは見えにくい水面下で、ある種の映画祭同士の間では、作品の争奪戦(上品に言えば分かち合い)が行われてもいる。
 もちろん、それらはほとんどの場合、作品を出品する側を交えた「かけひき」のような形で平和裏に行われていて、文字通りの「戦い」のようになるようなことはほとんどないのだけれど。
 なぜそういったことが起きるのかといえば、映画祭というのは一般的にプレミア上映(ワールド・プレミア、インターナショナル・プレミア、ヨーロピアン(アジアン)・プレミア等々、様々なレベルの「プレミア」がある)にこだわる存在だからだ。そして実際に、映画祭の規約として、作品選定にあたってワールド・プレミア、もしくはインターナショナル・プレミア(製作国本国では上映済みの場合)を自らに課しているような映画祭も少なくはない。
 つまり、他の映画祭ですでに上映された作品については、上映する優先順位が著しく下がったり、あるいは規定によって上映すらできない、ということにもなり、その結果、少しでも優れた作品を集めるために、時として作品の奪い合いのような形になることもあるということなのだ。逆に言うとそれは、作品の出品側にとっては、自分たちの作品の最初のプレゼンテーションの場として、どこでプレミア上映するかという選択の問題でもある。
 ベルリン国際映画祭の場合はどうだろうか。まず、言うまでもなく、この映画祭の場合は、共に三大映画祭と呼ばれるカンヌとベネツィアという二つの映画祭との関係性が大きい。2月に開催されるベルリン映画祭は、8月末から開かれるベネツィア映画祭の約5ヶ月後、そして5月に行われるカンヌ映画祭の約3ヶ月前に開催される格好となる。
 この開催期間の間隔というのが実に微妙で、実質的に考えると、ベルリン映画祭の作品選考のスタート地点はベネツィア前後ということになるだろうし、その進行も3ヵ月後に控えるカンヌ映画祭の巨大な吸引力を常に感じながら、ということにならざるを得ない。また、他の主な映画祭との関係を挙げると、新興のローマ映画祭やアジアの映画界に大きな影響力を持つプサン映画祭は10月に開かれるし、年が明けて1月には新進作家の発掘に定評のあるロッテルダム映画祭や、アメリカのインディペンデント映画振興を主眼とするサンダンス映画祭があり、これらの映画祭とも作品をうまく分け合わなければならない。
 つまり、ベルリンがいかに歴史的に権威のある映画祭であるとはいえ、どう控えめに言っても、作品選定に関しては非常に難しい立場にあると結論できるのだ(もっとも、楽な立場にある映画祭など、ほとんど存在してはいないのだけれど)。
 こうした視点で見た場合、ベルリン映画祭のプログラムについても、また違った様相を帯びて見えてくるかもしれない。改めてここで説明すると、ベルリン映画祭は総合型の巨大な映画祭である。「総合型」とここで便宜的に呼ぶのは、要するに何らかのテーマに特化した、例えばどこかの国や地域であったり、あるいはドキュメンタリー映画やレズビアン&ゲイ映画などに特化した映画祭ではないということを意味する。
 つまり逆に言えば、作品選定に関しては、予めあらゆる選択肢が開かれているということでもある。しかし、どういうわけか(というべきかわからないが)、結果的に出てくるプログラムは、非常にベルリン的としか言いようのない、微妙な、ある種の折衷的なものとなってあらわれてくることが多い。特にコンペティション部門に関して具体的にいうと、地域的には欧米の作品が多く、ある程度メジャー感のあるアメリカ映画がある一方で、「作家」として知られるヨーロッパの監督の作品もあり、他方では新進・中堅の監督による作品もある中で、作品のテーマとしてはやはりシリアスで社会的なものが並ぶ、といった具合である。
 今年のプログラムに関しても、コンペティション部門出品作の約半数ほどが、戦争や過去の歴史の負の部分を描いた、いわゆる社会派映画と呼べるものだったという。
 あるインタビューで、映画祭ディレクターであるディーター・コスリックは次のように語っている。「今年も非常に論争的な作品や、暗くそして過酷な題材を扱った作品が数多くそろった」 (*1)と。あるいは同じインタビューで彼は次のようにも語っている。「(今年のコンペ出品作で)最も批判された作品は『ボーダータウン』(原題)だが、この作品を選んだのは私の責任においてだ。それによって新たな殺人行為を防げるのであれば、私はそれでもこの映画を選ぶだろう。たとえジェニファー・ロペスとアントニオ・バンデラスがスクリーン上でただ単に会話をする作品であったとしてもだ。私たちにとっては、問題点を掲げて、犯罪行為を止めることのほうが重要なのだ」と。
 これらの発言が示唆しているのは、ベルリン映画祭に社会派の映画が多く集まるのは、主催者側の選択の結果でもあるということである。また、この発言を額面通りに解釈するとすれば、テーマが社会的に重要であるかどうかというのが作品選考の大きな基準になっていたということでもある。
 もちろん、そうした部分がすべてではないのは明らかだし、そこだけを強調するのはいささかバランスにも欠ける。しかしながら、結果においてもそのように見えることは確かであり、作家の名前が前面に出てくるようなラインアップを例年組んでくるカンヌやベネツィアと比較すると、その対比は余計に際立って見える。そしてそこには、前述したような、現在のベルリン映画祭が置かれた微妙な立場が大きく影響していることは確かであるようにも思える。
 そういう意味では、ベルリン映画祭が社会派の映画に重きを置き、そこに活路を見出そうとする戦略も、一つの(大袈裟に言えば)生き残りの手段としては理解できるものだ。理論武装も簡単である。大事なのは社会なのか、それとも映画なのか。いうまでもなく、社会の方が大切なのだから。映画を通して歴史の暗部や社会問題について知り、過去や現在の世界についての理解を深めることに大きな意義があることも、誰にも反論はできないだろう。それに、そうした問題や厳しい現実について、映画でしか表現できない側面も間違いなくあるはずだし、それらをうまく作品という形に落としこめたときには力強い表現が生まれ得ることも、また確かなのだ。
 今回の出品作で言えば、例えば監督賞を受賞した『Beaufort』 (*2)は、いずれ放棄する要塞を守るイスラエル兵の姿を抑制された緊張感をもって描いた佳作だったし、イジー・メンツェルの久々の新作『I Served the King of England』も、歴史に翻弄された一人のチェコ人の半生を軽妙な語り口で描いた上質な一本だった。
 だが、それでも一部の人は思うだろう。映画祭というのは、まずは映画のためにあるべきなのではないか、と。そして、こうも言うかもしれない。映画は元々多様性を内包しているもの。理屈なしに優れた作品を選んでいけば、必然的にそこから様々なテーマが浮かび上がってくるはずだ、と。映画には地域性や社会性を超えて、現代人の実存そのものに迫るような表現を生み出すことが可能であるし、それらが幾つも重なったとき、そのイメージは、今の社会に生きる我々の姿を確実に捉えているだろう。何も最初から「社会派」というような仮面を被る必要はどこにもないのである。
 今回のベルリン映画祭で披露された幾つかの作品、例えばパノラマ部門の『The Tracey Fragments』 (*3)や『2 Days in Paris』(*4) 、あるいはフォーラム部門で上映された『Wolfsbergen』 (*5)や『It Gonna Get Worse』 (*6)などには、個人的に大きな可能性を感じた。それらはコメディであったり、あるいはシリアスなドラマであったり、各々体裁は異なる作品ではあったが、いずれも純粋に映画として面白く、また現在の社会に生きる我々の姿の一端を確実に伝えていた。そこには地域性や社会性を超えた普遍的な〈イメージ=表現〉があり、だからこそ、映画というジャンルがそれ自体で社会を逆照射できることを、証明しているようにも思えた。
(文/神谷直希)
※ベルリン国際映画祭公式サイトはこちら(独語/英語)。
※第57回ベルリン国際映画祭の主な受賞結果はこちら(PDF)。

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デイリーニュースと動画レポートを掲載中です

 昨年の東京フィルメックスでは、多くのゲストが来日して上映後のQ&Aやトークショーなどを行いました。その模様は、公式サイトのデイリーニュースやブロードキャストコーナーで一部が掲載されています。
 その後、日本で作品が公開される時などに「そういえば東京フィルメックスで、監督がこんな話をしていたなぁ」と思い出しながら読み返していただけると、また新たな発見があるかも知れません。
 昨年(第7回、2006年)だけでなく、第5回と第6回のデイリーニュースもアーカイブからご覧いただけます。
<第7回東京フィルメックス デイリーニュース>
<動画レポート>