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2006年11月24日

アニエスベー Director’s Talk@MARUNOUCHI CAFE <ニュー・クラウンド・ホープ>関連トーク 第2部

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第7回東京フィルメックスで上映された『半月』(バフマン・ゴバディ)、『オペラジャワ』(ガリン・ヌグロホ)、『ハンモック』(パス・エンシナ)、『世紀の光』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)、『黒眼圏』(ツァイ・ミンリャン)。実はこれら5作品は、モーツァルト生誕250周年を記念して企画された<ニュー・クラウンド・ホープ>というプロジェクトの一環で制作されたものだということをご存知だろうか。今回、MARUNOUCHI CAFEで行われたトークショーでは、5作品のうち、『半月』のバフマン・ゴバディ監督と『ハンモック』のパス・エンシナ監督をお迎えして、<ニュー・クラウンド・ホープ>に参加するまでの経緯、モーツァルトとのかかわりなどについて伺った。

市山尚三プログラム・ディレクター(以下、市山)
「今回、<ニュー・クラウンド・ホープ>プロジェクト作品のうち5作品が東京フィルメックスで上映されます。この<ニュー・クラウンド・ホープ>は今まさにウィーンで開催中のモーツァルト生誕250周年を記念した総合芸術祭で、全体の総責任者はピーター・セラーズです。そのうち映画部門担当のプロデューサーはサイモン・フィールドとキース・グリフィスで、世界の7人の監督に映画制作を依頼し、6本の長編映画と1本の短編映画の合計7本の映画がつくられました。それでは、はじめに、どのような経緯でこのプロジェクトに参加することとなったのかをお二人にお聞きしたいと思います」

バフマン・ゴバディ(以下、ゴバディ)
「2004年のトロント映画祭で『亀は空を飛ぶ』が上映され、その直後にサイモン・フィールドから依頼され、OKしました。しかし、どうせ本気じゃないだろうと思いイランに戻ってからも放っておいたのですが、突然、いつ撮影を始めるのですか?と言われ、そのときにはもう、あと1週間でつくらなければならない状況になっていました。1週間という短い時間の中で、これは私の4本目の映画ではない、依頼されてつくるのだからそんなに深く考えなくていい、と自分自身に言い聞かせ、75%はプロデューサーのアイデアを取り入れてつくろうと思いましたが、結果的には短い時間でつくったものでも私の4本目の映画になりました」

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市山
「プロデューサーからの依頼の内容はどのようなものだったのですか」

ゴバディ
「モーツァルトの曲を聴いてからつくってほしいと言われ、とにかく音楽をたくさん聴いてから企画を書きました。でも出来上がった他の人の作品を観たら全然モーツァルトとは関係なくて、自分があのとき英語を理解できなかっただけなのかと思ってちょっとがっかりしたんですけど、モーツァルトを聴きながら映画をつくった1週間は大変有意義な時間でした」

パス・エンシナ(以下、エンシナ)
「私の場合は他の皆さんのようなキャリアを持っていませんので、少し違った経緯でこのプロジェクトに参加することとなりました。私の処女作である『ハンモック』は、元々<ニュー・クラウンド・ホープ>に入っていたわけではありません。ロッテルダム映画祭のシネマートにこの作品の企画を持っていったところ、ぜひ<ニュー・クラウンド・ホープ>の一員として参加してほしい、と頼まれたのです。そのような経緯ですので、モーツァルトやプロジェクトとの関係は希薄で、プロデューサーの意向もあまり反映されていません」

市山
「このプロジェクトに参加することは映画をつくる上で負担になりましたか」

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エンシナ
「プロジェクトとは引き離して捉えていましたのでプレッシャーや負担はありませんでした。『ハンモック』という映画は、私の念願かなった処女作ですので、映画を完成させることだけに集中しました」

市山
「<ニュー・クラウンド・ホープ>は今まさにウィーンで開催中で、お二人もウィーンから東京にやってこられたのですが、ウィーンはどんな状況でしたか」

ゴバディ
「ウィーンにいる間、自分の中では楽しかったのですが、フェスティバル自体はもっと豪華でもよかったのではないでしょうか。少し物足りない気もしました」

エンシナ
「すばらしい経験、思い出となりました。カンヌ映画祭にも参加したのですが、カンヌは格式ばったものだったのに比べ、ウィーンはアットホームな雰囲気でしたのでとても親しみを感じることができました。カンヌでは他の監督と触れ合う機会もなかったのですが、ウィーンでは他の監督とも交流できました」

市山
「ガリン・ヌグロホ監督と入れ替わりでアピチャッポン監督が来日されるのですが、ウィーンでは7人の監督が一堂に会す機会はありましたか」

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エンシナ
「7人全員が一度にそろったかどうかは定かではないのですが、幸運にも私はみなさんに会うことができました」

ゴバディ
「7人が同じテーブルに集まって話す機会がなかったことは、残念でした」

市山
「ゴバディ監督の『半月』はサン・セバスチャン映画祭でグランプリ、批評家賞、撮影賞を受賞されて非常に高く評価されていますね」

ゴバディ
「サン・セバスチャンからまだ2ヶ月しか経っていないのですが、幸い素晴らしい配給がつきました。」

市山
「それではご来場の方の中でご質問があればどうぞ」

Q:「この作品をつくる前はモーツァルトに親しんでいらっしゃったのですか」

ゴバディ
「昔、モーツァルトも含めてクラシックをよく聴いていましたが、今回改めてモーツァルト関連の音楽、本、映画を手にとりました」

エンシナ
「私も非常にクラシックが好きです。特にリストとベートーベンが好きでした。今回はプロジェクトへの参加の仕方が他の方とは違うので、制作の段階でモーツァルトを意識することはありませんでした」

Q:「エンシナさんに質問ですが、パラグアイでは映画がつくられていないなかで、どうして監督になろうと思ったのですか」

エンシナ
「幸運にも私はアルゼンチン留学中に映画の勉強をし、そこで友だちが外国資本で映画をつくっていることを知って、同じことをパラグアイでもすればいいじゃないかと気づきました。しかしパラグアイには映画をつくるラボもスタッフもありませんから、それらを海外から引き寄せてこなくてはなりませんでした」

Q:「パラグアイではスペイン語のアルゼンチン映画よりもハリウッド映画のほうが観られているのでしょうか」

エンシナ
「パラグアイで唯一観られるのはハリウッド映画です。パラグアイという国は非常に特殊な国で他の南米の国々と状況が違っています。いまだにここはどこかの国の植民地なのではないかと思うくらいです」

市山
「『ハンモック』は私がうまれて初めて観たパラグアイ映画なのですが、この作品の前にパラグアイで長編映画がつくられたのはいつごろのことなのでしょうか」

エンシナ
「35mmで撮られたものとしては1978年に『セロ・コラ(コラ坂道)』という、戦争についての映画がありました。しかしこの映画を制作したのは軍部だといっても過言ではありません。小さいころによく観た映画ですが、決して独創的なものとは言えないですね。ここ10年ぐらいビデオで撮られるものは多いですが、35mmに変換しての上映とまではいきません」

Q:「(ゴバディ監督に)一時期日本でイラン映画ブームがありましたが、それはイラン映画界に影響を及ぼしたのでしょうか。」

ゴバディ
「全世界に言えることですが、ハリウッドの影響が強く、インディペンデント映画の配給は難しくなっています。ある時期にはブームが来るかもしれませんが、飽きたら他の国の作品へとブームは移ってしまいます。イラン映画にも新しい血が流れれば、またイランに波がやってくると思います。ですから私も、ハリウッドというモンスターに食われない新しい映画をつくらなければならない、アート映画でも観客が楽しめるアート映画をつくってマーケットを広げなければならないと思っています。中近東で映画をつくるにはファンドも国からの支援もなく非常に厳しい状況ですが、それでも一生懸命映画をつくっていきたいと思います」

(取材・文/三宅里枝)

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投稿者 FILMeX : 2006年11月24日 21:00


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