デイリーニュース

TOP<>BACK

2006年11月23日

スクエア・トークイベント『プサン映画祭と韓国映画の躍進』

DSC04054.JPG

有楽町朝日ホール11階スクエアにて、今回の審査委員長でプサン国際映画祭のディレクターであるキム・ドンホ氏、同じく審査員で『ユア・マイ・サンシャイン』など数々の作品を手がけるプロデューサーのオ・ジョンワン氏、特別招待作品『相棒?シティ・オブ・バイオレンス―』のリュ・スンワン監督を迎えてプサン映画祭と韓国映画について語るトークイベントが開催された。会場は立ち見が出るほどの盛況となり、日本での韓国映画のいまだ衰えぬ人気と関心の高さを伺わせた。

市山
「まず最初にキム・ドンホさんにお話を伺いたいと思いますが、プサン映画祭はどのような形で始まったのでしょうか」

キム・ドンホ氏(以下、キム)
「プサン映画祭は1996年に、小規模でも良質な映画祭を作ろうということでスタートしました。
 その後、プサン映画祭が11年間という短い間でアジアを代表する映画祭として世界から注目されるようになった理由は4つ挙げられると思います。
 まず1つ目は、韓国で初めての国際映画祭だったこと。ハリウッド映画しか観られなかった中で、ヨーロッパやアジア、特に日本の作品など映画祭でしか観られない作品が集まるということで、本当に多くの若い映画ファンあるいはプサン市民が集まり、成功した形で出発することができました。
 そして2つ目は、私達が掲げた映画祭としての戦略や目標、プログラムの内容がとてもよかったこと。当時は東京国際映画祭と香港映画祭がアジアでトップクラスの映画祭でしたが、この二つとは何らかの形で差別化することが必要でした。それで、アジアの新人監督、新作を発掘して、世に知らせようという目標を掲げ、コンペティション部門なしにスタートしました。第3回目からは、アジアの映画制作者と、世界中から集まる出資者との出会いの場として、PPP(プサンプロモーションプラン)という部門を設けました。昨年からはアジアフィルムアカデミーを設け、映画教育の場も作りました。そして、今年からはそこで作られた作品の売買ができるアジアフィルムマーケットを設けました。
 3つ目は、政府の干渉を受けず、独自に運営することができたという点です。委員長である私の他に、副委員長と4人のプログラマーという6人体制で、自立的に運営しています。
 4つ目は、政府、プサン市、プサン市民、そして何よりも韓国の映画人が全面的に支援してくれ、自分達の映画祭であるかのように一生懸命かかわってくれるということです」

DSC04047.JPG

市山
「オ・ジョンワンさんに、映画プロデューサーという立場からのプサン映画祭への関わりを聞きたいと思います」

オ・ジョンワン氏(以下、オ)
「私が最初に参加した時に非常に記憶に残っているのは、やはり観客の姿です。第1回目であるにもかかわらず、本当に情熱を持って映画祭に来ていました。「自分はこういう人たちに見せる映画を作っているのだ」ということを改めて感じて、誇りを持ったと同時に責任を感じました。
私は第1回目に出品された『銀杏のベッド』を最後に会社から独立して、新しい会社を作って『情事』という映画の製作に携わりました。それ以降、果たして成功できるのかどうかと思われるような作品を手がけるようになりましたが、その理由のひとつはプサン映画祭にあったような気がします。プサン映画祭は、映画には多様性が必要であるということを教えてくれ、情熱を持った観客に見せるために、映画祭に参加できるような作品を作ろうという意欲を持たせてくれました。私は最初から参加しているので、この映画祭が続く間ずっと、プロデューサーとして映画を撮り続けていたいと思っています」

市山
「リュ・スンワン監督の『ダイ・バッド 死ぬか、もしくは悪(ワル)になるか』は第1回東京フィルメックスでも上映した作品ですが、プサン映画祭でも大変評価された作品だと聞いています。リュ監督にとってのプサン映画祭についてお話しください」

DSC04059.JPG

リュ・スンワン監督(以下リュ)
「当時私は助手として、今や世界的な監督であるパク・チャヌク監督の『三人組』という映画の現場で働いていました。当時は、キム・ジウン監督(『甘い人生』)やポン・ジュノ監督(『殺人の追憶』『グエムル 漢江の怪物』)もまだ映画を撮っていない頃でした。ですから、私はプサン映画祭が出来るという知らせを聞いた時、非常にうれしく思った反面、まだ韓国映画界は不安な状況だったので、この映画祭がいつまで続くのかと心配でした。
 最初私は純粋に観客として参加したのですが、その時に映画祭の熱気というものを目の当たりにし、また出品されている映画の水準も非常に高かったので、こういう状況だったら自分がデビューするまでこの映画祭は続くだろうと思いました。
 実は、私は長編デビュー前に撮った2本の短編映画をプサン映画祭に出したかったのですが、選ばれませんでした。ですから、最初は私にとってのプサン映画祭は復讐の対象でした(場内、笑)。プサン映画祭には優秀な韓国の監督たちの作品を映画祭から輸出していただいて、僕とあと数人の監督だけ韓国映画界に残ればいいと思います(場内、笑)」

続いて観客から次のような質問が挙がった。

「今後の更なる発展のためにキム・ドンホさんの考えるプサン映画祭の今後の課題、他のお二人には韓国映画界の課題について教えていただければと思います」

DSC04053.JPG

キム
「プサン映画祭は昨年で10周年を迎え、今年は更なる10年を目指す上での1年目なので、3つの長期のプロジェクトを考えました。先ほども触れましたが、アジアでもマーケットを設立し、アジア映画を買うためにはこの映画祭に来なければならないという状況を作っていきたいと思います。
 もうひとつ、プサンからアジアを代表する監督が生まれて欲しいという願いを元に、映画作りを目指す5人を厳選し、映画教育を施しています。彼らがこれからのアジア映画をリードする存在になるよう、この教育プロジェクトを発展させたいと思っています。またプサンの大学など教育機関を中心にファンドを募り、アジアでドキュメンタリーを作っている人たちに制作費の支援をしたり、ネットワークを作ったりということにも着手しています。
 これらを通じてアジアの映画産業を支え、アジアがともに映画の面で交流できるようにしたいと思います」

リュ
「韓国映画がここまで発展した要因のひとつはプサン映画祭ですが、もうひとつは韓国映画を保護するスクリーンクォーターという制度です。この制度が奪われてしまいましたので、回復できるように私達は奮闘しています。
 また韓国では、インターネットの違法ダウンロードで映画を見るのが慣例となっており、映画における第二市場と言われるDVDやVHSが全く今普及していない状況です。同時に数本の大きな映画だけがスクリーンを独占してしまう問題も非常に深刻だと思います。
 最後に、実は韓流というのは虚像だと思います。映画の本質を見ずにスターだけを見ているという現象がなくなって欲しい。作られたスターの笑顔を見るのではなく、映画の中にこめられた精神世界や価値観を見ていただいて、それが自分と一致した時に私達は本当の友達になれるのではないかと思います。そういった意味でも、みなさん『相棒―シティ・オブ・バイオレンス―』を見てください(笑)」


「今の韓国映画界は産業化されすぎているのではないかと思います。昔の韓国映画界の中心が映画人だとしたら、今の中心はお金や資本です。小さなハリウッドになってきているような気がしてなりません。韓国映画界がこれからも生き残っていくためには、たくさんの問題が山積みになっています。個人的に何が出来るのかということを考えながら、これらの問題を解決していかなければと思います」

(取材・文:若松絵美)

DSC04043.JPG DSC04052.JPG DSC04056.JPG

投稿者 FILMeX : 2006年11月23日 19:00


up
back
(C) TOKYO FILMeX 2006