11月25日、『食べよ、これは我が体なり』の上映後、ミケランジュ・ケイ監督を迎えてQ&Aが行われた。トロント映画祭でも上映されたこの作品は、ハイチを舞台に、白人の老婆とその娘、黒人の子供たちと召使が登場し、幻想的な表現が見る者を圧倒する。観客の質問に熱心に答え、多弁に語るケイ監督の姿が印象的なQ&Aとなった。
司会の林 加奈子東京フィルメックスディレクターがケイ監督を紹介すると、監督は「東京の皆さんと、この映画を分かち合うことができ、大変嬉しく思います。皆さんがこの映画を、どのように解釈するかは、それぞれに委ねられています」と観客に向かって挨拶した。
冒頭の空撮のシークエンスから、圧倒的な表現力を見せ付けた本作。林ディレクターは続いて、タイトルの『食べよ…』には、どのような意味が込められているのだろうか、と質問を投げかけた。
「この作品の脚本は、老婆が『食べよ、これは我が体なり…』と語るモノローグから書き始めたんです。そこからまるでサンゴ礁が広がるように、物語が広がっていった。私とはいったい誰なのか、他者とはいったい誰なのかという、アイデンティティをめぐる作品にしようと考えていました。ですから、聖書の言葉にもある、このような象徴的なタイトルになりました」
聖書の世界にあまり馴染みのない日本の観客にこの作品を見せるにあたって、監督はどのように考えているのだろうか。
「この作品はハイチを舞台にしていますが、実はハイチという地を直接的に指す言葉は、映画の中には登場しません。地理的境界を越えた作品を目指しました。また私は今回、明治記念館を見学する機会に恵まれ、そこで興味深いものを発見しました。それは、神様に食物が供えるための台のようなものだったのですが、神様に食物を捧げるという行為、これはブードゥー教でも、キリスト教でも、日本の神道でも、他のどの宗教にも共通する根っこのような観念なのではないでしょうか」
またハイチの植民者として、老婆とその娘という女性のみを用いて描いたことに、どのような意図があるのだろうか。会場からのこの質問に対して「いい質問です!」と身を乗り出すケイ監督。
「植民者と被植民者は、表と裏、鏡のように、互いを創造しあう存在だと思います。母・娘という表象を用いたのは、生命のサイクル、連鎖する関係といったものを強調するためです。男性よりも女性のほうが、そのようなイメージを強く持っているのではないでしょうか。しかし、もしかすると、私の中に女性に対して、潜在的な恐怖心があるのかもしれません…というのも、今日私の白人の妻が一緒に会場に来ているのですが、彼女は私の頭の中をすっかり植民地化しているからです(笑)」
ここで林ディレクターが、本作の音楽の編集なども手掛けたサウンドデザイナーでもあるケイ監督夫人が紹介すると、会場からは拍手が湧き起こった。
老婆とその娘という役柄に対して、さらに質問が及ぶ。キャスティングはどのように行ったのだろうか。これに対しケイ監督は、「老婆は、典型的な“老婆”のイメージを抱かせる女優を起用しました。また、娘の役を選ぶ際に重視したのは、成熟している一方で少女らしさを残し、両義的なイメージを持っている女優、という点です」と語った。
映画の中には、老婆とその娘、子供たちと召使が物語を繰広げる舞台として、まるで遺棄されたような生活感のない家が登場するが…
「家には、新しくもなく、古くもなく、時代が特定できないようなイメージを求めました。また同じように、映画の中のどのシーンも、特定の時代を想定させないような配慮をしたつもりです」(ケイ)
また監督は、「この作品は、人種、大人と子供、男女、貧しい者と裕福な者といったような、現実的な差別問題を批評した作品として解釈されるのを避けたいと考えながら制作しました。この作品において確実に言えることは、自己と他者、あるいは見る者と見られる者、という対比についてのみです」と、作品の解釈について付け足した。
「会場の皆さんの質問を受け付ける場なのに、私自身が喋りすぎてしまい、申し訳ありませんでした(笑)」と最後に述べたほど、自ら積極的に、自身の作品を語ってくれたケイ監督。会場には、始終白熱した空気が立ち込めていた。
(取材・文:和田 真里奈)
投稿者 FILMeX : 2007年11月25日 16:00