11月23日、「楽しき国際映画祭」をテーマにトークイベントが有楽町朝日ホール11階スクエアで行われた。ゲストは、各国の国際映画祭の常連であり、これまで映画祭に200回以上参加した経歴をもつ、エリカ&ウルリッヒ・グレゴール夫妻と丹羽高史さん。林 加奈子東京フィルメックスディレクターが進行役となって、それぞれ豊富なご経験から、映画祭ファンには聴き逃せない貴重な話をたっぷりと語ってくれた。
グレゴール夫妻は、世界3大映画祭のひとつであるベルリン映画祭フォーラム部門の創設者であり前ディレクターである。フィルメックスではエリカさん、ウルリッヒさんともに審査員をつとめた経験を持ち、毎年来場されるおなじみの顔となっている。一方、パイオニア映画シネマデスク代表の丹羽高史さんは、モスクワ、カザフスタン、トルコ(ユーラシア映画祭)、北朝鮮(平壌映画祭)、ハバナ、イランなど、映画祭がある国にはどこにでも出かけてゆくベテランバイヤー。
まず、林ディレクターが映画祭との出会いについて話題をふると、「私の人生にとって映画は切り離せないもの」とウルリッヒさんが語る。「最初の映画祭は、1956年のカンヌ国際映画祭でした。当時はまだ学生で、パリで映画の勉強をしていました。モペットという50ccのバイクでカンヌまで向かい、ユースホステルに泊まっていたんです。当時は1日2本しか上映しませんでした。上映がない時は泳いだり、山登りしたりしていました。1930年代のムッソリーニの時代に始まったヴィネツィア国際映画祭が最も古く、大規模な映画祭でした。カンヌ映画祭は、1939年に開催を予定されていましたが第二次世界大戦が勃発したため、1946年にスタートしました。当時は1日2本上映で、一つの国が1本作品を送ってきて、それを上映していました。政治的、商業的意図もあり、主催者側が映画を選んで上映するという形ではなかった」。
世界中の映画人たちとコンタクトを持つグレゴール夫妻は、1980年代後半、南アフリカにおいていろいろな変化があると聞いていたという。エリカさんは続ける。「アパルトヘイトのために、南アフリカ共和国からは映画が入ってきていなかったんですが、その頃、ジンバブエ国際映画祭で、アフリカの人たちの映画を初めてみることができました。そして映画祭の2年後の1994年に、アパルトヘイトが廃止されました。私にとって思い出深い映画祭のひとつです」
ウルリッヒさんは「私たちにとって新しい作品、新しい監督を探し出すことが一番の喜びなんです。1980年代後半に、台北に初めて行き、台湾のホウ・シャオシェン監督とエドワード・ヤン監督をベルリンに招待し上映することができました。30数年世界中駆け回っているが、まだ新しい発見があるんじゃないかと思っているんです」。80年代後半から毎年来日し、20?30本の日本映画を見ているというお二人だが、岡本喜八監督など新しい監督を発掘することが喜びだと語った。
印象に残る映画祭について聞かれると、ウルリッヒさんがフィンランドのミッドナイト・サン・フィルム・フェスティバルを挙げた。「カウリスマキ監督兄弟が主催している、夏の白夜のなか、24時間上映している映画祭で、芸術的に価値のある映画を上映してくれます。見続けているとエクスタシーではないが”映画ハイ”になってくるのです。しかし欠点があって、ものすごく蚊が多いので蚊に刺されながら映画を見ることになるのです。この映画祭のディレクターであるペーテル・フォン・バックさん(第2回東京フィルメックスでのニルキ・タピオヴァーラ監督特集の際に講演)が、有名な映画作家を招待して、その人と午前中2時間二人で延々とトークをするのですが、高いレベルの話し合いで非常に面白いです」
丹羽さん「タシケント映画祭は強烈な体験でした。ソビエト体制にあってそれまで封印されていたロシアのアレクセイ・ゲルマン監督『わが友イワン・ラプシン』という作品を見て、素晴らしいカメラワークに驚嘆して、早速作品を買いました。全く知らなかったんですが、すごくわかりやすくて心情をよくとらえた作品で、(知られざる古い作品の中に傑作が眠っている点は)日本と同じだなと感じました」。
林ディレクター「国際的な映画祭としては、トロント映画祭のほうが格段に大きくなっていますが、モントリオールは地元の人たちがとても暖かくて、ものすごく熱狂しているのです。カンヌやベルリンでは忙しすぎるので、モントリオールでは映画だけ見るぞと集中して、という見方もあります。映画祭も何のために行くかによって活用の仕方が変わってきます」
丹羽さん「ポーランド映画祭は、国内作品から海外作品まで上映します。ホテルと会場と海しかなく、映画を見るしかない環境で映画好きが集まってくる映画祭です。毎回、荷物をまとめて引越しするような作業で、帰国したら資料をまとめて、結構な作業で体力が追いつかないですが、映画が見たいし、その国の新しい監督を発見したい」。
次に、理想の映画祭について、林ディレクターが質問すると、丹羽さんがすぐにチェコのカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭と答えてくれた。「1992年に行きました。初めはお客さんがいなかったんでが、3年めくらいからお客さんが増えてきています。一番好きな映画祭です。それと、モントリオール映画祭。映画の本数と、運営委員会が親切にしてくれることという点で、好きですね」
ウルリッヒさん「カルロヴィ・ヴァリは私たちも大好きな映画祭です。冷戦集結前はひどい組織でしたが、90年以降は新しい人たちががんばって非常に素晴らしい映画祭に変わりました。私の記憶では、スクリーンの前に寝転がって学生さんが映画を見ている、超満員で素晴らしい雰囲気です」
林ディレクター「カルロヴィ・ヴァリでは、若い人たちが寝袋を持って集まってきます。映画祭が開催される7月はまだ寒いのですが、ホテルのロビーで寝かせてくれるんです。温泉地なので、昼間に温泉でシャワーを浴びて、また映画を見る」
エリカさんは、カンヌを挙げる。「映画の現在の傾向が分かるし、あらゆるいい作品が見られる。ある傾向に反対しているなら、反対の傾向もみられるという点で、私にとってカンヌがいい映画祭です」
最後に、ウルリッヒさんが映画祭の変遷とこれからについて語った。「カンヌ映画祭は国の代表作を上映していたために芸術性の面から批判があり、それを受けてコンペのほかに1964年に批評家たちが自分たちが選んだ作品を上映するセクションをつくり、1968年の学生運動後、監督週間が始まりました。ベルリンでも同じような批判があり、1971年からフォーラムというセクションができたのです。その後、セクションが増えて今は10くらいのセクションを並列して上映していますが、どれもほとんど満員でチケットがとれないという状況になっています。ある意味で映画祭のスーパーマーケット化といえますが、この傾向は続くと思う」。さらに、こうした国際映画祭の巨大化について、「いつかあまりにも巨大になりすぎて空中分解するかもしれない。昔のカンヌのような1日2本上映の映画祭に戻るかもしれない」という可能性を指摘した。
林ディレクターが映画祭の名を挙げるたびに、次々にゲストから映画祭の変遷や印象深いエピソードなどの尽きないストーリーが語られる。予定の時間を過ぎても熱心に語りつづけるゲストに、来場者は名残惜しげに拍手を送った。
(取材・文:宝鏡千晶)
投稿者 FILMeX : 2008年11月23日 20:00