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2008年11月27日 トークイベント「『バシールとワルツを』予備知識講座」

bashir_lec_3.jpg 11月27日、コンペティション作品『バシールとワルツを』の上映に先立ち、有楽町朝日ホール11階スクエアにて「『バシールとワルツを』予備知識講座」と題したトークイベントが開催された。この作品はイスラエルのアリ・フォルマン監督が、自ら従軍した1982年の第一次レバノン戦争とその中で起こった「サブラ・シャティーラ事件」と呼ばれる虐殺事件の記憶を辿るドキュメンタリーである。この戦争と事件について、防衛大学校国際関係学科教授の立山良司さん(中東現代政治)をお迎えしてレクチャーしていただいた。

1982年6月、イスラエル軍は南レバノンに侵攻し、パレスティナ武装勢力(パレスティナ・ゲリラ)と戦闘に入った。この侵攻の目的は、イスラエル国境から40キロ以内の南レバノンにあるパレスティナ・ゲリラの拠点を壊滅し、イスラエルへの脅威を取り除くこととされた。しかし、国防大臣アリエル・シャロン(2001年から06年まで首相)の意図は、レバノンに親イスラエルのキリスト教マロン派の政権を樹立することにあった。
この戦争におけるキー・パーソンは、当時のイスラエル首相でタカ派として知られるメナヘム・ベギン、シャロン国防相、映画には登場しないが、パレスティナ解放機構のヤーセル・アラファト議長。そして、今回の映画のタイトルにある「バシール」、バシール・ジュマイエルである。ジュマイエルはキリスト教マロン派(レバノンにおけるキリスト教徒の最大勢力)の民兵勢力ファランジスト(アラビア語ではカタエブ、今回『バシールとワルツを』に付けられた日本語字幕では「ファランへ党」と表記)の指導者で、イスラエル軍侵攻後の1982年8月にレバノン大統領に選出されるも、直後に爆殺されている。後述のように、「サブラ・シャティーラ事件」の引き金となったのはこの暗殺である。
イスラエル軍の攻勢によってパレスティナ武装勢力は9月初めまでにレバノンから撤退し、アラファト議長らはチュニジアへ退去した。これをもって主要な戦闘は終了したが、イスラエル軍は85年まで南レバノンに駐留し続けた。さらに、1985~2000年までイスラエル国境から幅15kmほどを「安全保障地帯」とし、イスラエル軍及びその支援を受けたレバノン民兵組織「南レバノン軍」が駐留していたことからも分かるように、この戦争はその後十数年に渡り、イスラエル・レバノン国境地帯に緊張をもたらしたのである。

ここで、戦争の背景となった、当時のレバノンの政治状況について説明がなされた。レバノンはイスラム教スンニー派、シーア派、キリスト教はマロン派、ギリシャ正教、アルメニア正教の他多数の宗派、そしてユダヤ教徒など、「宗教・宗派の博物館」と呼ばれる程に多様な信仰を持つ人々を抱えている。また山岳地帯であることから、地理的にも地方毎に分断されていた。
フランスの委任統治領であったレバノンは1943年に独立し、「中東のスイス」、首都ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれるほど栄えたが、宗教・宗派の微妙なバランスは崩れやすく、常に政治は不安定であった。
1970年代初頭には、ヨルダンを追われたパレスティナ武装勢力がレバノンに移動し、南レバノンを拠点にイスラエルへの攻撃を行った。1975年、レバノン内戦が勃発し、レバノンのさまざまな民兵組織、パレスティナ武装勢力各派、さらにシリアやイスラエルが介入し、レバノンは「破綻国家」の状態に陥る。この状況下でパレスティナ武装勢力は南レバノンでの基盤を一層拡大し、イスラエルとの対立は激化。イスラエルは1979年にもレバノンへの軍事侵攻を行っている。

bashir_lec_1.jpg 1948年のイスラエル独立前後に、70万から80万のパレスティナ人が難民となったが、レバノンにも1950年時点で約13万人の難民がいた。2008年6月末時点で約40万人が、12の難民キャンプで生活している。これは国連管理下の「オフィシャルキャンプ」の数であり、実際にはさらに多くのキャンプが存在する。ベイルート市内にあるサブラとシャティーラは国連管理のキャンプではないが、「難民キャンプ」と呼ばれている。歴史的に、ベイルートを南北に走る道路の東がキリスト教徒、西がイスラム教徒の居住区となっており、キャンプは西側にあった。

1982年9月14日、ファランジストの本部ビルが爆破され、バシール・ジュマイエルらが死亡する事件が起こる。犯人は未だ明らかではなく、さまざまな可能性が考えられている。しかし、ファランジストはパレスティナ武装勢力の犯行と判断。難民キャンプに武装勢力が逃げ込んでいるとしてサブラ・シャティーラ難民キャンプでの掃討を計画し、ジュマイエルの暗殺直後より西ベイルートに進駐していたイスラエル軍はこれを許可した。
9月16日夕、ファランジスト民兵はキャンプに侵入し、18日朝まで非戦闘員、女性、子ども、老人を含む難民を虐殺した。犠牲者は500人から2000人と推定され、一部には3000人を超えるとの説もある。
この惨劇を招いたイスラエル政府・軍には国内外で批判が高まり、政府は最高裁判事カハンを首班とする委員会を設置し、調査を行った。

この事件を巡るイスラエル軍の行動については、いくつかの疑問点が上げられている。
第一に、なぜ、ジュマイエル暗殺直後に西ベイルートを占領したのか。これは親イスラエル政権樹立を目論むシャロンが、パレスティナ武装勢力の残党やスンニー派武装勢力がマロン派の政治基盤を破壊することを怖れたためである、という。
二つ目は、なぜイスラエル軍はファランジスト民兵をキャンプ内に入れたのか、という点。映画でも語られるが、カリスマ的存在であったジュマイエルが暗殺されたことで憤激にかられていた民兵たちが虐殺を行うことは十分予知できたのではないだろうか。そして、虐殺が発生した時点で、近くにいたはずのイスラエル軍がそれを把握できなかったのか?
当時現場にいたイスラエル軍関係者たちの証言によると、「虐殺が起きている間、イスラエル軍はキャンプの出入り口を固め、さらにキャンプ内が見えるビルの屋上に前線基地を設置していた」「あるイスラエル将校がファランジスト民兵に「なぜ女性や子どもを殺すのか」と尋ねたところ、民兵は「女は子どもを生み、その子どもは成長してテロリストになる」と答えた」「異常事態が起きているという報告が断片的にテルアビブに伝えられていたが、最後まで組織的な対応はまったくとられなかった」という。すなわち、イスラエル軍側は虐殺の事実を知りながら、傍観したことになる。

事件翌年の1983年2月、カハン委員会が報告書を発表する。そこでは、惨劇の直接の責任はファランジスト民兵組織にあるが、イスラエルにも惨事を予測する十分な根拠があったにもかかわらず、彼らをキャンプ内に入れたことに間接的責任がある、とされ、適正な手段を取らなかったシャロン国防相は「個人的に責任を取るべき」とされた。しかしシャロンは辞任を拒否し、その後の事態拡大の中で国防相の職は辞したが、無任所相として閣内に残ることとなった。これをもって行政的には一応の解決をみたが、この戦争と虐殺事件がイスラエル社会に残した影響はどのようなものだったのだろうか。

イスラエルの徴兵制度では、18歳で男性は3年、女性は2年の兵役義務が課せられる。それは、男性の場合は徴兵時に戦争が行われていれば、すぐに最前線に送られる可能性があるということを意味する、と立山さんは言う。『バシールとワルツを』の中でも、ディスコで夜を明かし、ヴィデオゲームに興じる日々を送る若者が突如悲惨な戦場に放り込まれて戸惑う様子が印象的である。
イスラエル国内の世論では、「選択肢のない戦争」と「選択肢のある戦争」という言い方があるという。前者はレバノン戦争以前の戦争―イスラエルでは“国防上避けられなかった”と考えられる戦争である。後者はまさに1982年のレバノン戦争を意味し、シャロンが政治的意図をもって押し進めた、避けることのできた戦争であるという言い方がなされているのである。「何のための戦争だったのか?」という問い、虐殺を目の前にしながら「何もしなかった」という記憶は、従軍した人々に深い傷跡を残している。

最後に会場からの質問を受け付けた立山さんに、年配の男性から「“民兵”という概念がよく分からない。軍というものはオフィシャルな組織ではないのか?」という疑問が寄せられた。「日本に暮らしていると理解しにくいかもしれませんが、軍や警察といった国家が独占する暴力装置以外に武力を持つ勢力というものがあり、それが民兵と呼ばれています。先に述べたようにレバノン政府は70年代から80年代にかけて破綻国家状態にあり、各地に地域や宗派を基盤とした組織が勢力を持っていました。周辺諸国からの武器供給によって肥大化し、政府軍よりも大きな軍事力を有する組織もあるのです。例えば有名なヒズボラは、4万発のロケット砲を持つなど規模・装備の面でレバノン政府軍を凌いでいます」

事件のもう一方の当事者であるパレスティナの人々にとって、サブラ・シャティーラは民族的な悲劇として強く記憶されているという。立山さんは、イスラムの聖地であるエルサレムの岩のドームの中にはこの事件について刻んだ小さな碑が設けられている、と語り、レクチャーを締めくくった。


(取材・文:花房佳代)


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投稿者 FILMeX : 2008年11月27日 20:00


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