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2008年11月29日 トークイベント「『愛のむきだし』を楽しむために」

miyasono_1.jpg 11月29日、特別招待作品『愛のむきだし』上映に先立ち、園子温監督と宮台眞司さんのトークイベントが有楽町朝日ホールの11階スクエアで行われた。『愛のむきだし』は、実話をベースに、盗撮マニアの主人公ユウと敬虔なクリスチャンの父、理想の女性マリアとしてユウと出会うヨーコら複雑な関係を、愛と信仰と性、希望と絶望を行き来しつつ描いた、壮大でスピード感あふれる237分の超大作である。首都大学東京教授で社会学者の宮台眞司さんはさまざまな角度から質問を投げかけて問題提起し、園監督が言葉を選びつつ独自の映画観と世界観を語った。

『愛のむきだし』が生まれた経緯について、園監督が自主映画を撮っていた際に、実際に”盗撮界”で当時有名になっていたユウに相当する人物に、製作を手伝ってもらったことがきっかけだという。園監督いわく、彼の妹さんがとある新興宗教にハマってしまっていたところを、愛の”変態“パワーで救出した事件が実際に起こったらしい。「妹さんに『こっちの世界に戻ってこい』と言ったらしいんだけど、こっちの彼の世界って変態じゃないかと(場内笑)。彼の愛のパワーに心を打たれたし面白い話だと思った。その話から20年たって、急に映画にしてみたくなった」と園監督が語る。
映画には、0(ゼロ)という新興宗教集団が登場する。カルト宗教といわれる新興宗教と世界宗教の違いは、二元論であるかないか。SF作家平井和正原作の『幻魔大戦』の世界観に象徴されるように、カルトには二元論の黒と白がはっきりした世界があり、『愛のむきだし』からはその二元論の世界に対する拒絶感を感じたと、宗教学を研究している宮台さんが話す。
園監督にとっては、キリストを愛することと、キリスト教は違うし、悪魔も善と悪の二元論になっているという。「キリストと悪魔、どちらも僕は奥まで入れない。2つの炎があって両方ともゆずれない、離れることもできないという自分がいて、ジレンマもあったり、そういうところが映画にも出ているんじゃないかな」
アメリカの「エヴァンジェリカルズ」というキリスト教の小宗派が二元論に近い考え方を持っており、9・11世界同時多発テロ事件が勃発した後、ヨハネ黙示録のハルマゲドンにおいて最後の戦いが始まったとみなしているが、ばかげた二元論という世界観だと宮台さんが語り、二元論について、「高橋泉監督の『ある朝スウプは』では宗教と性愛が描かれているけれども、ここではピュアな宗教と性愛が戦ってピュアな宗教が勝つ。宗教の方が純粋さを求める時は優位になる」と述べた。園監督は、これに対し、「変態が、セックスの道具としての肉体を使って(愛する者を)脱会させる、そこらへんがそそるというか、(映画をつくりあげる上で)面白かった」と語った。「ユウはある意味性欲の塊に近いんだけど、性欲か愛か混沌としたものでなんとかやっていこうと肉体を使ってやったところが面白かった」

miyasono_2.jpg 純粋さには2つの解釈があり、ロリータ・コンプレックスの例では、アメリカのロリータとフランスのロリータに分かれる。アメリカでは少女は何も知らないから純粋、フランスでは少女は狡猾な悪魔的な存在とされている。少女は地獄に落ちることで、自分や二元論ではない世界を肯定する。これはロリコンだけではなくて、性愛に対するとらえ方でも、フランスとアメリカはまったく対照的だと、宮台さんは話す。「スタンリー・キューブリック監督の『アイズ・ワイド・シャット』は、変態的な妄想で相手にのめりこむ構図で、ちゃんちゃらおかしい例えです。ヨーロッパの人が見た場合、園監督の映画は、純粋さを巡る解釈についての批判と受け取れると思うんです」。この言葉に、園監督が考え込むと、宮台さんが別の質問に切り替えた。「『愛のむきだし』は非常にコミカルで、長い映画ですが、深刻な主題を意識しないでいれます。コミカルに撮るか、シリアスに撮るかというのは重要な選択ですよね。コミカルに撮るということは、どの段階で決めたんですか?」
「サルトルが『聖ジュネ』を書いてますが、それをジュネが読んだ時に暖炉にくべるというエピソードがあったけれども、宮台さんの質問は、いいとこ突いてくるんで、あまり肯定したくない(場内笑)」と園監督は告白しつつ、続ける。
「映画のなかで「ボレロ」という曲が流れていますが、この曲を使うことはある意味ギャグですし、たぶん最初から考えていたと思います。内容が内容ですから、日本映画にないスピード感のあるものにしたかった。スピードをつけるということは、コミカルになるに違いないなと。盗撮やキリスト教はどこまでも暗く、湿ったものにできる素材ですからね。逆にコミカルにしたみたかったんですが、ポイントを抑えるところだけギャグになったのかな」

miyasono_3.jpg 前作『紀子の食卓』(カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭で特別表彰&FICC賞受賞)との共通性として、話法が複数で、登場人物Aが一人称で語り、次にBが、次にCが一人称で語るというようにセクション分けを多用している、そういう手法でこだわって撮った理由を宮台さんに質問されると、「映画のなかで、推測されるのが好きじゃないです。芝居していない部分を読み取るとか、たぶんこういうことを考えているのだろうという推測が登場人物のなかに起きたくない。キーワードになる人間を僕は全部、情報として前半で与えて、そうすれば後半は考えることはわかるから、ある程度くると(情報提示は)いらない。最初はこと細かく伝えたい」
「非常に衝撃的な回答」と驚く宮台さん。「映像を使った表現の多くは、言葉で語れないものを語りたいという、想像させるような作品が映画的だというが、それが嫌いなのはなぜですか?」と園監督に問う。「それが実際に映画的だと思えない。みんなが同じ時代の流れをつくっている時にしかできない。(そうした時代は)相米慎二監督くらいで終わりじゃないかな。今は、10分前に始まった映画の登場人物の気持ちをわかることはできない。誰が何を考えているのかよくわからない今の時代には向かない」と園監督は断言する。
宮台さん「余白を通じて想像させる映画は、こういうメッセージが暗黙に伝わりますよね。皆さんが感じている現実がほんとはもっといいもので、毎日余白に相当するものを想像していれば、もっとふくらみのある現実が見えるというメッセージが。園監督の映画にはそうしたメッセージはないですが、それについては、どう思いますか?」
「宮台さんは、そういう映画は外国映画にも多いと思いますか?」と逆に聞き返す園監督。日本映画のほうが圧倒的に多いと宮台さんが応じると、園監督は答える。「書かない、あえて余白を増やすということは、それはそれでいい」
宮台さん「余白じゃなくて、情報や現実的なものですべて埋められた映画は、カオス的で、トランス状態になったピークで、ものすごい情報のハイパーリアル感が突如とれるところがないと(いけないなと)、感じるんですよ」
ここで会場に姿を見せていた出演者に気づき挨拶する宮台さん。「僕もちょっと出演していてゾロアスター教について講釈しています(場内笑)」
次回作について、園監督は「主題として宗教、しかもカルトの話ですが、なぜ宗教にこだわるかといえば、日本にキリストが生まれたらどういうことを起こすか?という疑問がまだ(頭から)取れていないせいですね。火のなかには入っていけない、でも入りたいんですよね。その入っているべき場所がサイキックという領域で、(そこに入れば)別の僕が生まれると思っている。来年くらいから入っちゃおうと思っていますけれども。これ、質問でしたっけ?」我に帰る園監督。「いや違うんですけど」とまぜっかえす宮台さんに、笑いが巻き起こった。

「日本にキリストが生まれたらどうなるのか、そのキリストとは園子温なのかということが皆さん一瞬頭をよぎったかもしれないけれども(笑)、園監督という存在の不思議な力がある気がするんです。神を指し示したりはしないが、もうひとつ別の角度、another sideすら指し示さずに、パンチラを指し示したところが園監督のすごいところです。これから上映される『愛のむきだし』、皆さん期待してごらんいただければと思います」と宮台さんが締めくくった。


(取材・文:宝鏡千晶)


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投稿者 FILMeX : 2008年11月29日 16:30


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