11月23日、東京国立近代美術館フィルムセンター大ホールにて、蔵原惟繕監督の『ある脅迫』が上映された。上映後のトークイベントでは、“川瀬治”のペンネームで当時脚本家として本作品に関わり、1960年代に数多くの喜劇シリーズのメガホンをとった映画監督の、瀬川昌治さんが登壇。書籍編集者の高崎俊夫さんを聞き手に迎え、蔵原監督との思い出や、“東映ヌーベルバーグ”、当時の日活映画などについて語った。
林加奈子・東京フィルメックスディレクターの紹介で、瀬川さんと高崎さんがステージに登場。2年前にラピュタ阿佐ヶ谷で瀬川さんの特集を組んだことがあるという高崎さんに、『ある脅迫』を見た感想を問われると、「この映画を見たのは3回目だが、この大スクリーンで見て、改めて圧倒されました」と感想を述べる瀬川さん。昨日、本を整理して探してきたという、当時の貴重な脚本を観客に掲げて見せながら、作品を執筆した当時をこう振り返る。「1950年から新東宝で助監督をしていたのですが、1957年に退社して、フリーで脚本を書いていて。日活の作品を3本書きました。阿部豊監督の『傷だらけの掟』と、野口博志監督の『最後の戦闘機』。その後に『ある脅迫』を書いてくれ、と話がきたんです。それが1959年で、ちょうど東映に入り、助監督として1年間働いていたときだったのですが、その間を縫って書きました」。瀬川さんは蔵原監督の奥様のファンだった、というエピソードも披露し、会場を笑わせるシーンも。
「新東宝で助監督をしていたとき、のちに蔵原さんの奥さんとなる、元宝塚の、宮城野由美子さんのファンだったんです。井上梅次さんの『わが恋はリラの木陰に』というメロドラマに宮城野さんが主演されたとき、舛田利雄くんと志願して押しかけ、『どうぞ使ってください』って言って。ずっと宮城野さんのお世話をでき、非常に幸せな時間を過ごしたことがありまして。その後蔵原さんが宮城野さんと結婚したので、非常に羨ましい部分もあって。蔵原さんは非常に二枚目なので、これはかなわないな、と(笑)。蔵原さんに初めてお会いしたとき、そんなお話をしました」
次に、トークは蔵原監督作品の魅力に触れられた。「今回の特集は初期の珍しい“フィルム・ノワール”、犯罪映画が選ばれていますが、『ある脅迫』は、中でも極めつけ」と、高崎さん。それに対し、瀬川さんは「昨日『第三の死角』を拝見したが、あれも絵的に素晴らしいですよね。ああいう感覚の映画は、今あまり見られないので。蔵原さんの絵は、重量感があって、極めてシャープ。今日あらためて感心させられました」と応答。「僕もぽんこつというデビュー作の準備に入っていて、おつきあいしたのは『ある脅迫』一本だけでしたが、蔵原さんは、明快な<語り口>を持っています。だから、こちらも脚本が書きやすかった」と、蔵原監督の仕事ぶりを賞賛した。
日活専属ライターになる話を断った経緯から、“瀬川”をひっくりかえして“川瀬”のペンネームで脚本を書き、フリーの脚本家と東映の助監督を兼任していたという瀬川さん。「『最後の戦闘機』は川瀬、『傷だらけの掟』は川瀬昌治の名前で出している。さすがに“昌治”がついているのはヤバいかな、と。東映に入る前に勤めていた新東宝は、自由な雰囲気で。よそで本名をおおっぴらに出して仕事していても、何も言わない。それで給料もくれて。さすがに、呼びだされましたこともありましたが。『“せがわしょうじ”で東映の映画が出ているが、キミと同じ人かね』と言われて。でも、『すいません』と謝っておしまい。いい会社でした(笑)」。専属のシナリオライターにならないか、という誘いを固辞するも、蔵原監督作品を含めて、その当時の日活映画への瀬川さんの評価は高い。舛田利雄くんや川島雄三さん、中平康さんとか、日活映画はよく見ていました。そのときに蔵原さんの映画を見て、新しいパワーとリズムを感じましたね。裕次郎が登場した影響もあるのだと思いますが」。瀬川さん曰く、当時東映でも、日活と同様の新旧交代の動きはあったそうだ。「東映が第二東映を作って量産体制だった時代に監督をさせてもらえたので、僕にとっては非常にラッキーでした。『ある脅迫』を書いていた時期に第二東映で映画を作っていましたが、1年間に12本も助監督をさせられました。それくらい量産していたから、1つ1つの映画に勢いがある。予算が少ないので、そのぶん小品の中で実験しようというパワーがありました」
当時と今の映画の違いは、俳優にも言えるという。「『ある脅迫』に主演された、金子信雄さんと西村晃さんは、お二人とも脚本を書く前から親しかったので、イメージをなるたけ潰さないように書いた記憶があります。金子さんも西村さんも、何を言っても、プラスアルファを出してくれる。エネルギーがあって、ギトギトしていて、その感覚がとてもいい。両者とも“相手に負けまい”というプライドがあるんです。セリフのやり取りで盛り上がった後の、間合いのところでも火花が散って。そういう、雰囲気でドラマを助けてくれる役者さんって、今はいないんです。自分のセリフを喋ったら、それでおしまい。あの頃はお二人のような、主役も脇役もできる方がいっぱいいましたね」と、瀬川さん。
フィルムワークしかり、役者の演技しかり。音楽もまた、当時は実験的で勢いがあったそうだ。「お客さんをどんどんのせていく……、それが映画には不可欠。蔵原さんは、そのへんきちっとされていて。観客の、次のシーンの予測を見事にはずしたり。でも、きちんと語りの線に添っていて。それがお客さんを惹きつけるんだと思います。今の若い監督さんを見ていると、自分の思い入れだけで。そういう“語り口の妙”をもうちょっと勉強したほうがいい。思想はもちろん持っていないといけないが。それを伝える“伝え方”を勉強しないと」と、瀬川さんから今の若い映画監督へのメッセージも。トークは盛り上がり、時間が延長されるが、「ここでお止めするのがたいへん心苦しいですが」と、林ディレクターが場を締めた。1960年代日本映画界の貴重なエピソードに、観客が食いいるように聞き入った、濃密な30分間であった。
(取材・文:長村綾子)
投稿者 FILMeX : 2008年11月23日 16:30