ほとんどすべての物事がそうであるように、映画祭についても、他の映画祭との様々な関係性の上で成り立っている側面がある。たとえば、あるひとつの映画祭のプログラムについて、それがどうしてそのような内容に落ち着いたのかということを検証しようとすれば、そのような視点を抜きにして考えるのは現実的にはとても難しいだろう。
つまりはこういうことだ。国際映画祭の世界では、映画祭同士の情報交換のネットワーク(のようなもの)が存在している。それは主に人と人との繋がりを基盤にしているものだ。そしてまた、それとは違うレベルで、表からは見えにくい水面下で、ある種の映画祭同士の間では、作品の争奪戦(上品に言えば分かち合い)が行われてもいる。
もちろん、それらはほとんどの場合、作品を出品する側を交えた「かけひき」のような形で平和裏に行われていて、文字通りの「戦い」のようになるようなことはほとんどないのだけれど。
なぜそういったことが起きるのかといえば、映画祭というのは一般的にプレミア上映(ワールド・プレミア、インターナショナル・プレミア、ヨーロピアン(アジアン)・プレミア等々、様々なレベルの「プレミア」がある)にこだわる存在だからだ。そして実際に、映画祭の規約として、作品選定にあたってワールド・プレミア、もしくはインターナショナル・プレミア(製作国本国では上映済みの場合)を自らに課しているような映画祭も少なくはない。
つまり、他の映画祭ですでに上映された作品については、上映する優先順位が著しく下がったり、あるいは規定によって上映すらできない、ということにもなり、その結果、少しでも優れた作品を集めるために、時として作品の奪い合いのような形になることもあるということなのだ。逆に言うとそれは、作品の出品側にとっては、自分たちの作品の最初のプレゼンテーションの場として、どこでプレミア上映するかという選択の問題でもある。
ベルリン国際映画祭の場合はどうだろうか。まず、言うまでもなく、この映画祭の場合は、共に三大映画祭と呼ばれるカンヌとベネツィアという二つの映画祭との関係性が大きい。2月に開催されるベルリン映画祭は、8月末から開かれるベネツィア映画祭の約5ヶ月後、そして5月に行われるカンヌ映画祭の約3ヶ月前に開催される格好となる。
この開催期間の間隔というのが実に微妙で、実質的に考えると、ベルリン映画祭の作品選考のスタート地点はベネツィア前後ということになるだろうし、その進行も3ヵ月後に控えるカンヌ映画祭の巨大な吸引力を常に感じながら、ということにならざるを得ない。また、他の主な映画祭との関係を挙げると、新興のローマ映画祭やアジアの映画界に大きな影響力を持つプサン映画祭は10月に開かれるし、年が明けて1月には新進作家の発掘に定評のあるロッテルダム映画祭や、アメリカのインディペンデント映画振興を主眼とするサンダンス映画祭があり、これらの映画祭とも作品をうまく分け合わなければならない。
つまり、ベルリンがいかに歴史的に権威のある映画祭であるとはいえ、どう控えめに言っても、作品選定に関しては非常に難しい立場にあると結論できるのだ(もっとも、楽な立場にある映画祭など、ほとんど存在してはいないのだけれど)。
こうした視点で見た場合、ベルリン映画祭のプログラムについても、また違った様相を帯びて見えてくるかもしれない。改めてここで説明すると、ベルリン映画祭は総合型の巨大な映画祭である。「総合型」とここで便宜的に呼ぶのは、要するに何らかのテーマに特化した、例えばどこかの国や地域であったり、あるいはドキュメンタリー映画やレズビアン&ゲイ映画などに特化した映画祭ではないということを意味する。
つまり逆に言えば、作品選定に関しては、予めあらゆる選択肢が開かれているということでもある。しかし、どういうわけか(というべきかわからないが)、結果的に出てくるプログラムは、非常にベルリン的としか言いようのない、微妙な、ある種の折衷的なものとなってあらわれてくることが多い。特にコンペティション部門に関して具体的にいうと、地域的には欧米の作品が多く、ある程度メジャー感のあるアメリカ映画がある一方で、「作家」として知られるヨーロッパの監督の作品もあり、他方では新進・中堅の監督による作品もある中で、作品のテーマとしてはやはりシリアスで社会的なものが並ぶ、といった具合である。
今年のプログラムに関しても、コンペティション部門出品作の約半数ほどが、戦争や過去の歴史の負の部分を描いた、いわゆる社会派映画と呼べるものだったという。
あるインタビューで、映画祭ディレクターであるディーター・コスリックは次のように語っている。「今年も非常に論争的な作品や、暗くそして過酷な題材を扱った作品が数多くそろった」 (*1)と。あるいは同じインタビューで彼は次のようにも語っている。「(今年のコンペ出品作で)最も批判された作品は『ボーダータウン』(原題)だが、この作品を選んだのは私の責任においてだ。それによって新たな殺人行為を防げるのであれば、私はそれでもこの映画を選ぶだろう。たとえジェニファー・ロペスとアントニオ・バンデラスがスクリーン上でただ単に会話をする作品であったとしてもだ。私たちにとっては、問題点を掲げて、犯罪行為を止めることのほうが重要なのだ」と。
これらの発言が示唆しているのは、ベルリン映画祭に社会派の映画が多く集まるのは、主催者側の選択の結果でもあるということである。また、この発言を額面通りに解釈するとすれば、テーマが社会的に重要であるかどうかというのが作品選考の大きな基準になっていたということでもある。
もちろん、そうした部分がすべてではないのは明らかだし、そこだけを強調するのはいささかバランスにも欠ける。しかしながら、結果においてもそのように見えることは確かであり、作家の名前が前面に出てくるようなラインアップを例年組んでくるカンヌやベネツィアと比較すると、その対比は余計に際立って見える。そしてそこには、前述したような、現在のベルリン映画祭が置かれた微妙な立場が大きく影響していることは確かであるようにも思える。
そういう意味では、ベルリン映画祭が社会派の映画に重きを置き、そこに活路を見出そうとする戦略も、一つの(大袈裟に言えば)生き残りの手段としては理解できるものだ。理論武装も簡単である。大事なのは社会なのか、それとも映画なのか。いうまでもなく、社会の方が大切なのだから。映画を通して歴史の暗部や社会問題について知り、過去や現在の世界についての理解を深めることに大きな意義があることも、誰にも反論はできないだろう。それに、そうした問題や厳しい現実について、映画でしか表現できない側面も間違いなくあるはずだし、それらをうまく作品という形に落としこめたときには力強い表現が生まれ得ることも、また確かなのだ。
今回の出品作で言えば、例えば監督賞を受賞した『Beaufort』 (*2)は、いずれ放棄する要塞を守るイスラエル兵の姿を抑制された緊張感をもって描いた佳作だったし、イジー・メンツェルの久々の新作『I Served the King of England』も、歴史に翻弄された一人のチェコ人の半生を軽妙な語り口で描いた上質な一本だった。
だが、それでも一部の人は思うだろう。映画祭というのは、まずは映画のためにあるべきなのではないか、と。そして、こうも言うかもしれない。映画は元々多様性を内包しているもの。理屈なしに優れた作品を選んでいけば、必然的にそこから様々なテーマが浮かび上がってくるはずだ、と。映画には地域性や社会性を超えて、現代人の実存そのものに迫るような表現を生み出すことが可能であるし、それらが幾つも重なったとき、そのイメージは、今の社会に生きる我々の姿を確実に捉えているだろう。何も最初から「社会派」というような仮面を被る必要はどこにもないのである。
今回のベルリン映画祭で披露された幾つかの作品、例えばパノラマ部門の『The Tracey Fragments』 (*3)や『2 Days in Paris』(*4) 、あるいはフォーラム部門で上映された『Wolfsbergen』 (*5)や『It Gonna Get Worse』 (*6)などには、個人的に大きな可能性を感じた。それらはコメディであったり、あるいはシリアスなドラマであったり、各々体裁は異なる作品ではあったが、いずれも純粋に映画として面白く、また現在の社会に生きる我々の姿の一端を確実に伝えていた。そこには地域性や社会性を超えた普遍的な〈イメージ=表現〉があり、だからこそ、映画というジャンルがそれ自体で社会を逆照射できることを、証明しているようにも思えた。
(文/神谷直希)
※ベルリン国際映画祭公式サイトはこちら(独語/英語)。
※第57回ベルリン国際映画祭の主な受賞結果はこちら(PDF)。
(1) Screen International, Number 1585, page 9.
(2) Joseph Cedar監督作品。長編3作目。
(3) Bruce MaDonald監督作品。15歳の少女トレイシーの物語を、文字通り断片的な映像(画面分割、小画面等々)を全編に渡って用いて描いた作品。
(4) ジュリー・デルピー監督作品。ニューヨーク在住のフランス人女性とアメリカ人男性のカップルが、ヴェニスへの休暇旅行の帰路に、女性の実家のあるパリに立ち寄った2日間を描いたロマンティック・コメディー。
(5) Nanouk Leopold監督作品。機能不全に陥っているある(拡大)家族の群像劇。曽祖父が自らの死を予告する手紙を各家族に送るところから始まり、彼の死によって映画は幕を閉じる。
(6) Petr Nikolaev監督作品。1970年代のソヴィエト占領下のチェコで、無軌道に生きる若者たちを描いた青春群像劇。