カンヌについて書くのは難しい。
その主な理由は、しばしばそれが「世界最大の映画祭」とも称される通り、巨大な映画祭だからだろう。何をもって「世界最大」なのかは全く不明ではあるものの、確かにその甚大な影響力まで考えれば、その呼称も納得がいくような気もしてくるから不思議だ。実際、今年の公式部門(*1)の作品数は短編や学生映画部門(Cinefondation)の作品を合わせても約150本であり、これより総作品数が多い映画祭は他にいくつも存在しているのだが(*2)、カンヌの場合に感じるのはそういった次元の話ではなく、どちらかというと虚実の入り混じったような、焦点のはっきりとしない巨大さであるのが厄介なのである。
ただ、はっきりとしている指標もある。それは、IDパスを持つ参加者の数は間違いなく世界一の映画祭だということである(*3)。つまり、映画祭の出品作の関係者はもちろん、ジャーナリストや批評家、映画の権利を売買するビジネス目的の人々(つまりはセールス会社や配給会社)、各映画祭の関係者、各国の公的機関の関係者、そして企画を抱えるプロデューサーや監督や俳優など、あらゆる種類の関係者たちが、毎年5月の半ばのカンヌに、試写を観たり、商談をしたり、企画を練ったり、あるいはただ宣伝のためだけに滞在するのである。カンヌはその種の場所としては年間を通じて最大級の場所であり、その年の映画の潮流をも決定してしまう程の影響力を持つ。だから注目も集まるし、作品も集まるし、その結果人も集まってくるのだ。
しかし、このように割とはっきりと見える部分があるからといって、カンヌについて書くことの困難さがすっきりと解消されるわけではない。なぜなら、このように圧倒的に多くの、そして様々に異なる立場の人が映画祭に関わっている以上、それを統一された視座から見るということは事実上不可能になるからである。従って、映画祭に関するテレビや新聞や雑誌の報道の記述が、スターや有名人たちの登壇のレポート、監督や俳優のインタビュー、各作品の評論、あるいは作品権利の売買のニュースといった「各論」を中心になされるのにはある程度の必然性がある。そしてその各論の集積が、総体としての映画祭のイメージを形成していくことになる。だからもしスター俳優たちがレッド・カーペットを歩いている様子が突出して報道されれば、それが映画祭の突出したイメージになっていくわけだ。
しかし、映画祭の中心はあくまでも映画そのもののはずだ。そう捉える向きもあろう。しかしながら、純粋に個々の作品を評価し、その集合体として映画祭を捉えようとする場合にも、明らかな困難に直面することになる。というのは単純に、一人の人間が期間中に出品作の全てを観ることは物理的に不可能だからである。だから解決策としては、複数の人間でカバーするしかないのだが、そうすると、またもや統一された視座というのは不可能になってしまう。となると、初めから対象を限定するのが合理的なやり方となり、幸か不幸か映画祭には「コンペティション」という核となるプログラムが存在している。そして事務局側も、最も強力であると考える作品を、この部門に集めてきている。必然的に、多くの記者はこの「コンペティション」の作品を中心に観てまわり、記事を書くことになる。
日本の新聞などの報道の多くがこの方式をとるのは、その意味で合理的だし、正しい。記者はほとんどの場合各社一人の割合で派遣されているし、割り当てられている紙面も限られているからである。その結果、新聞記事の場合は、1)その年のラインアップの特徴と受賞結果についての総評、2)受賞結果に沿った各作品の短い解説、3)日本映画の出品作について、という3つの軸で構成される場合がほとんどになり、雑誌の場合には、そこにスター俳優や有名人たちの華やかな写真が加わったりすることになる。
もちろん地元フランスのメディアの状況はまったく違うし、その他の欧米のメディアの力の入れ方も日本の大新聞的状況とは大きく異なっているように見える。報道量そのものも比較にならないが、それは脇に置いておいても、少なくともそこには、映画祭のプログラミングに対する批判的な目が存在している。漠然と受賞結果を紹介し、その作品紹介をしているだけでは生まれ得ない緊張した弁証法的関係が、そこでは成り立っているように見える。
しかし、いずれの場合にせよ、映画祭の全体を記述することの不可能性は、前提とされなければならないことは確かだ。だからここではさしあたり、コンペや賞結果は映画祭の中心ではあるけれども、あくまでも部分であるということは強調しておきたいと思う。賞に絡まなかった作品や、「ある視点(*4)」の作品、あるいは「監督週間」や「批評家週間」にも、注目されるべき映画は眠っているはずだし、クラシック部門にも、再発見されるのを待っている映画はあるはずなのである。というより、そうした意識を持って映画祭に臨むことが、たとえコンペの作品だけを記述対象にするのであっても、必要とされる態度ではないだろうか。
だが、ここまで書いてきて思うことがある。カンヌについて書くのが難しいのは、突き詰めて考えると、おそらくそのことが「映画祭とは何か」という根源的な問いと地続きに繋がっているからではないだろうか、と。そして、その向こう側には間違いなく「映画とは何か」という、途方に暮れてしまいそうな更に根源的な問いが、かすかに、しかし厳然と控えているに違いないのだ。
おそらく、カンヌ映画祭の事務局が感じるプレッシャーは毎年相当なものだろう(*5)。 カンヌにおける映画のプログラミングとは、審査員団の選定なども含めて、「映画祭とは何か」という問いに毎年答えを提出するようなものだからだ。これは、巨大な特権であると同時に、大変な重責でもある。そこで一旦提出された「答え」は、参加者たちの手に委ねられる段になると、上映会場でそれぞれに吟味され、同時にメディア上でも批判と賞賛を含めて多方面に議論されることになる。そしてまた、レッド・カーペット上で微笑むスターたちの存在は、そこに虚飾をももたらす。同時にその水面下では、マーケット会場を中心に個々の作品の権利が活発に売買されてもいる。それらの活動はすべて直接的な、あるいは間接的な相関関係にあり、カンヌ映画祭に参加するということは、その総体が生み出す巨大なうねりに呑み込まれる、という体験に他ならないのだ。そして、その巨大なうねりのどこかに、「映画とは何か」という問いに対する答えが、いくつも束になって転がっているようにも思えるのである。
カンヌ映画祭の歴史とは、その毎年の営みを数十回と繰り返すことによって生まれてきたものだ。その巨大な重みは、筆者のようにこれまでたった3度参加しただけでも、充分に感じ取ることができる。もちろん、世界中にあるそれぞれの映画祭がそれぞれのやり方で「映画祭とは何か」という問いに答えようとしているのは確かだ。しかし、世界の映画祭が現在直面している争点(*6)を凝縮した形で見せてくれるのが、カンヌ映画祭であり、だからこそ、我々は常にそこに目を注いでいかなければならないのである。(文=神谷直希)
※主な受賞結果は以下の通り。すでに各所で報道されている通り、ある程度「順当」な結果である。特に上位の3賞(パルムドール、グランプリ、監督賞)は、賞の順列はどうであれ、概ね多くのプレスの前評判通りだった。ラース・フォン・トリアー、ガス・ヴァン・サント、デイヴィッド・クローネンバーグ、ホウ・シャオシェンらの新作も高評価を集めたが、今回は惜しくも賞を逃した。また、アジアからはコンペ初参加の監督の作品が4本出品されたが、ワン・シャオシュエイの『Shanghai Dreams』が見事審査員賞を受賞している。
_パルムドール
ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ『L’Enfant (The Child)』
_グランプリ
ジム・ジャームッシュ『Broken Flowers』
_監督賞
ミヒャエル・ハネケ『Cache (Hidden)』
_最優秀女優賞
ハンナ・ラスロ『Free Zone』(監督:アモス・ギタイ)
_最優秀男優賞
トミー・リー・ジョーンズ『The Three Burials Of Melquiades Estrada』(監督:トミー・リー・ジョーンズ)
_脚本賞
ギジェルモ・アリアガ『The Three Burials Of Melquiades Estrada』(監督:トミー・リー・ジョーンズ)
_審査員賞
王小帥(ワン・シャオシュエイ)『Shanghai Dreams』
_カメラドール
Vimukthi Jayasundara 『La Terre Abandonnee』
ミランダ・ジュライ『Me, You And Everyone We Know』
_短編パルムドール
Igor Strembitskvy 『Podorozhn』
_ある視点賞
Cristi Puiu 『The Death Of Mr. Lazarescu』
“prize for intimacy”: アラン・カヴァリエ 『Le Filmeur』
“prize of hope”: S. Pierre Yameogo 『Delwende』
監督週間賞
エマニュエル・カレール 『髭を剃る男』
批評家週間賞
ミランダ・ジュライ 『Me, You And Everyone We Know』
国際批評家連盟(FIPRESCI)賞
ミヒャエル・ハネケ『Cache(Hidden)』(コンペティション)
Amat Escalante 『Sangre』(ある視点)
リュウ・スンワン 『Crying Fist』(監督週間)
カンヌ映画祭公式サイト
http://www.festival-cannes.org/
「監督週間」公式サイト
http://www.quinzaine-realisateurs.com/
「批評家週間」公式サイト
http://www.semainedelacritique.com/
以上。
<註>——————-
*1:コンペティション/コンペ外上映作品(特別招待作品を含む)、ある視点、短編コンペティション、シネフォンダシオン(Cinefondation / 学生映画部門)、カンヌ・クラシックスの各部門が、いわゆる公式部門。「監督週間」や「批評家週間」は運営母体がそれぞれ異なっている。また、映画の権利の売買が行われるマーケット(Marche du Film)や各国のパヴィリオンが軒を連ねる ヴィレッジ・インターナショナル(Village International)も公式に組織されている。
*2:例えば、今年のロッテルダム映画祭の公式総作品数は短編やビデオ作品を含めて約700本。ただ、カンヌの場合、マーケットでの上映作品や企画を含めると、計3681タイトルという膨大な数字になる。
*3:Screen International (5月27日?6月2日号)によれば、今年の業界関係者の参加は計9476人で、2004年の8814人を大きく上回ったという。
*4:アレクサンダー・ペインを審査委員長とする今年の「ある視点」賞の選択には唸らされた。主席で受賞したCristi Puiu監督の『The Death of Mr Lazarescu(英題)』は今年の「ある視点」部門の作品の中でも「最大の発見」と言われるだろうし、副賞の2賞の選択も、一方で極私的な小品であるAlain Cavalier監督の『Filmman』をしっかりと擁護しつつ、他方で途上国ブルキナファソの『Delwende』(S. Pierre Yemeogo監督)に光を当てる、という非常に見識のある結果だったと思う。またその他にも、今年の「ある視点」には良質な作品が多かったということを付け加えておきたい。作品としての良し悪しとは別に、製作規模の大小やテイストなどが考慮された結果、「ある視点」にラインアップされる作品があることがわかる。
*5:一昨年の複数メディアによる(ヴィンセント・ギャロ『ブラウン・バニー』の酷評を発端とする)バッシング以来、カンヌの事務局はメディア上での評判に対して相当に神経質になっている様子が伺える。新顔が顔を揃えた昨年、そして常連組が揃った今年。そうしたゆれ戻しも、メディアの反応を過度に意識した結果であるように見える。
*6:作家主義、商業主義、芸術性、娯楽性、産業の保護と育成、新しい才能の発掘、地域性といった指標の中で、自らをどこに位置づけるか、という問題である。