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第59回カンヌ映画祭 レポート


カンヌに来る度に考えさせられることは多々あるのだが、その内の一つは、映画と文化の関わりについて、あるいはそれらの事柄と社会との関係についてである。これは何も抽象的で大仰なことを述べているわけではなく、つまりはカンヌが、あるいはフランスという社会が、映画という文化を非常に重視し尊重しているということが、カンヌ映画祭に参加すると体感として実感できるということなのだ。
もちろん、社会が映画を文化として尊重するかどうかというのは、その社会(の成員)の責任で決めればいいのであって、尊重しようがしまいがそれは基本的にその社会内部の合意事項である。またそうした合意の成立には、その社会で文化や対抗文化が占めてきた位置や、国家権力、あるいはメディアや現代的な広告産業など、様々な要素が複雑に絡んでくるものだろうから、日本もフランス社会を見習うべきだ、といった単純な話にすぐさま回収できるようなことでもない。だから、ここで一旦はっきりと強調しておきたいことは非常にシンプルなことで、カンヌは映画祭として、フランス社会の上述の態度をメッセージとして明確に表象しているということであり、そのことを僕は個人としてしっかりと実感することができるし、また、その状況を非常に羨望をもってみてしまうということなのだ。

だからこの際少々暴走気味に言ってしまえば、そうした基本的なメッセージさえ表現することができれば、その年の映画祭は一応成功したとさえいえるのだと思う。そして、そのような文脈からいえば、通常映画祭を賑わすような事柄、例えば「今年の受賞結果(あるいは受賞予想)は…」とか「今年のセレクションは全体として低調で…」といった議論などは、あくまでも副次的な要素だとさえいい得る。もちろん、映画祭の進行と共に、毎年数多くのメディア(や個人)がこの種の議論を行っており、それはそれで多いに結構だし、実際に映画祭の盛り上げに一役買っていることも間違いない。それにまた、僕自身も、業界紙などが掲載する星取表などを含めて、いつもそれらを楽しんで読ませてもらっている 。
だが、そのような議論に関しても、カンヌがプログラム内容やそれらのプレゼンテーション全体を以って発しているメッセージをある種の前提とした上で議論をしているのか、あるいはそうでないのかによって、明らかな差異がみられることは指摘しておきたいと思う。つまり、そうした前提を共有した上でなされている議論に関しては、それがいくら辛辣な批判になっていようとも納得して受け止めることが出来るのだが、逆にまったくそうした文脈を欠いている議論の場合には、そこに何が書かれていようと、何らかの違和感を感じることになるのである。いうなればそれは、議論を展開するための根幹として、〈社会・文化・映画〉の有り様について、そのメディアが自覚的であるかないかということにも繋がってくる事柄だからだろう。その意味において(この文章は日本国内に向けたものなので敢えて書くのだが)、日本のメディアのカンヌ関連報道には、極めてお粗末なものが多いということは、残念ながらここに付け加えておかなければならないと思う。
しかしながら、逆に言えば、そうしたある種の(ミス)コミュニケーションさえもすべて飲み込み、許容してしまうのがカンヌの恐ろしさであり、懐の深い部分ともいえるのだから、それを含めてやはりカンヌは凄い映画祭だといわざるを得ない。そして裏を返せば、このようなコミュニケーションの文脈においては、これまで述べてきたような視点についても結局はただの一つの視点に過ぎないわけで、そのことは事実として当然受け入れなければなるまい。先日、英紙『ガーディアン』のポッドキャストで「それぞれの参加者にそれぞれの『カンヌ体験』がある」という内容のことを担当記者が(極めてニュートラルな説明として)話していたのだが、良くも悪くもそれは本当にその通りなのだ。例えば、非常に単純な側面だけを見ても、どのような立場でそこに参加するのかによって、カンヌ映画祭への視点は大きく異なってくるはずである。
いくつかの具体例を挙げよう。例えば、映画祭参加者の多くは、映画の権利を売買するマーケットに関係する人々である 。マーケットと映画祭は同時期に開催されており、両者はある程度連動して動いている。「ある程度」というのは、つまり、映画祭選定作品としてある作品の商品価値が上昇したり、公式上映での評判や最終的な受賞の有無などの要因によって価格が動くといった側面ははっきりと見られる一方で、映画祭選定作品の数はマーケットで取引される作品全体からいえば極めて少数であり、また通信手段の発達に伴うプリセールの興隆などもあるため、映画祭の動きがマーケットに与える影響は限定的になってきているとも言えるからである。だから逆に言うと、むしろマーケットはマーケットで独自の力学で動いていると見なした方が実情に近いのかもしれない。一つだけはっきりと観察できることは、マーケットの最盛期は映画祭の開幕日から最初の週末にかけての数日間であり、それ以降に中盤戦を迎える映画祭の盛り上がりとは、大きく乖離しているということである。
次に多いのはプレスとしての参加者だろう。カンヌのプレス・パスが媒体の種類などによって効力的な面でヒエラルキー構造になっていることは、ある程度事情を知っている人たちの間では有名な話だ。だが、そういうレベルの話とは別に、彼らの行動様式だけを見たとしても、その報道目的や内容によってそれらは大きく異なってくるのは当然である。つまり、レッド・カーペットの模様をひたすらカメラに収め続けているような立場の人もいれば、ずっと対人のインタビューに明け暮れているような人もいるだろうし、批評家のような立場で一日に何本も映画を観て、その論評を書いている人たちも大勢いるはずである。同じプレスとしての立場でも、それぞれの置かれた立場によって、見えてくる景色が全然違うものであることは容易に想像がつくだろう。
さらに、カンヌには世界中の映画祭関係者や基金等の公的機関の関係者も集結していて、そこで情報交換を行ったり、プレミア上映される映画をチェックしたりもする。また、今年のフジテレビがまさにそうであったように、自社作品の宣伝のためにカンヌを利用し、パーティーなどを開催したりする場合もあるし、そうしたイベントに伴ってカンヌ入りする有名人もやはり数多くいる。極端な話、一方で朝から深夜までずっと映画を観続けているような人もいれば、他方では毎晩明け方まで各種のパーティーに参加し、昼間はずっと寝ている人だっているわけなのだ。
従って、それぞれの参加者が、それぞれの立場で抱く「カンヌ像」というのがあるはずで、当然のことだが、そのどれが正しいとか間違っているとかいうこともない。だから、繰り返すが、冒頭に示したようなカンヌと〈社会・文化・映画〉の関係についての視点も、カンヌをめぐる各種のコミュニケーションの、ただの一つの文脈に過ぎないわけだ。
だが、そう断った上で、改めてここで述べておきたい。確かにカンヌには、レッド・カーペットや正式上映時における正装(蝶ネクタイ!)に象徴されるように、スノビッシュで高飛車な映画祭のように見える部分もあることは否定しない 。また、有名人ばかり集め、様々な面で商業主義に迎合しているように見える部分もあるのかもしれない。だが、何度も実際に上映会場に足を運んでみれば、カンヌがあのようなレッド・カーペット等の演出を施し、ある意味過剰なまでに恭しく作品を上映しているのは、映画の作り手、つまりは映画作家を祝福し、敬意を表すためであることは、自ずと理解されてくるはずだと思う。確かに映画祭側も、セレブレティたちがもたらすグラマラスな側面が映画祭にとって欠かせないことを認めてはいる。しかしながら、中心にあるのはあくまでも映画と映画作家であり、そこだけはぶれずにしっかりと映画祭側に認識されていることは、現地で実際に何度か上映に立ち会ってみれば、明確に認識できるはずである。素晴らしい作品と出会い、その場でその作り手である作家を祝福できることは観客にとってもこの上ない喜びであり、映画祭の全ての演出はそこに向けて成されている。カンヌのあのような演出自体には全面的に賛同するわけではないが、少なくともその意思に関しては敬意に値すると思う。そこに見られるのは、映画文化への「信仰」に近いともとれる、深い情と尊敬の念だからだ。
また、実際に何度も上映会場に足を運んでみなければ分からないことはまだある。それは、映画の可能性を改めて切り開くような作品や、旧来的な価値規範に切り込み観客に挑戦するような映画を、カンヌはリスクを冒してでも積極的に紹介しているということである。今年のプログラムでは、例えばコンペティション部門に出品されたペドロ・コスタの『Juventude em Marcha』やブルーノ・デュモンの『Frandres』、そしてある視点部門に出品されたパス・エンシナの『Hamaca Paraguaya』やパルフィ・ギョルギの『Taxidermia』などがそのような作品に相当するだろう 。こうした作品たちが、公式上映作品として堂々と多くの人々に目に晒され、なお且つ多くの観客に受け入れられている様子を何度も目の当たりにすれば、心ある人ならば、ある種の感動を覚えずにはいられないはずだ。と同時に、この種の出来事は決して偶然に起こっているわけではなく、映画祭側のある種のビジョンに基づいて起こっているということが、次第に理解されてくるはずである。そして、映画という芸術を通じて、我々はどのように社会を見ればいいのか、あるいはどのような社会をつくっていくべきなのか、そうした鋭く真摯な問いを、上映会場の暗闇でずっと突きつけられていたことに、そこで改めて気が付くことになるのだ。
(文/神谷直希)
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代表的な業界紙には、例えばScreen International やVarietyなどがある。因みに、Screen International紙の星取表ではペドロ・アルモドバルの『Volver』が最高の平均点で、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの『Babel』、ヌーリ・ビルゲ・ジェイランの『Iklimler』、ギジェルモ・デル・トロの『Pan’s Labyrinth』、アキ・カウリスマキの『Lights in the Dusk』等がその後に続いていた。
権利を売る側、いわゆるセラー側(プロダクションやセールス・エージェント)はマーケット会場内や近隣のホテルなどに仮事務所を構え、バイヤー側(配給会社やビデオ会社やテレビ局等)とそこで商談やミーティングを行う。また、マーケット会場や会場付近にある多くの試写室(近隣の映画館を含む)ではバイヤー向けの試写が膨大に組まれている。ちなみに、2006年6月2日付のScreen International紙によれば、マーケットに今年持ち込まれた作品数は企画段階のものを含め4569本だという。
ドレス・コードに関しては、レッド・カーペットの模様を取材するカメラマンにも正装を義務づけているほどに徹底している。もしもコードに抵触している場合、作品の関係者でない限りは入り口で入場を断られ、そのままでは絶対に入れてもらえることはない。ただ、民族衣装(あるいはそれらしく見えるもの?)であれば、比較的対応は緩やかなようにも見受けられる。
また、未見だが、特別招待作品の『Avida』も周辺情報から察するにその種の作品かもしれない。同作品は、Benoit DelepinとGustave Kervernの共同監督による、2本目の長編作品。
※第59回カンヌ映画祭の主な受賞結果については公式サイトにて参照できます。
公式サイト:http://www.festival-cannes.org/
受賞結果(英語):http://www.festival-cannes.org/archives/prix.php?langue=6002&edition=2006
受賞結果(仏語):http://www.festival-cannes.org/archives/prix.php?langue=6001&edition=2006

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