第17回東京フィルメックスも残すところ2日となった11月26日、有楽町朝日ホールにて特別招待作品『エグジール』の上映が行われ、上映後のQ&Aにリティ・パン監督が登壇した。第12回東京フィルメックスでクロージングを飾った『消えた画 クメール・ルージュの真実』(13)に続き、監督自身が経験したカンボジアの虐殺と飢餓の時代を描いている。
最初に、司会の市山尚三東京フィルメックスプログラム・ディレクターが、前作とはまったく異なるアプローチを用いた理由を訊くと、監督は「今回は、より個人的な事柄を扱っています」と応じた。
作中で多くの詩を引用したことについて、「全体主義体制における野蛮さに対して、詩は偉大な抵抗の手段となりえる」と語り、スターリンによる思想弾圧の中でも文学を受け継いだ人びと、ナチス政権下の極限状況の中で表現活動をやめなかったユダヤ人の作家や音楽家たちを挙げた。
クメール・ルージュの時代、家族と引き離され、自由を奪われた生活の中で、こっそりアメリカやフランスの歌を歌ったり、父が教えてくれた詩を暗唱したりしたという。両親との絆や思い出を守ることがリティ少年の抵抗であり、生き延びる力となった。「“アウシュヴィッツの後では、もはや詩は不可能だ”と言った哲学者がありましたが、虐殺を経て私が感じたことは、詩はよりいっそう必要だということ。大きな悲劇を経験した者は、人生が素晴らしいものだということを見失ってしまう。生を否定する感情を抑えて自分自身と和解するために、詩が必要なのです」
かつて、虐殺の生存者だという視線を周囲から向けられることを恐れていた監督は、「詩によって救われた」と語る。「大江健三郎が書いたように、原爆から生き延びた広島の人びとはその思いを話すことができず、苦しんでいた。私は詩に出会い、他人の言葉を借りることで、生き直すことが可能になりました」
観客から「アラン・レネの作品を想起したが、より親しみを感じた」という声が寄せられると、監督は「レネは記憶を扱ってきた作家で、『ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)』(59)や『彫像もまた死す』(53)など、言葉にできないことをどのように表現するかという倫理的姿勢に影響を受けた」と応じた。しかし、実際に虐殺を経験した者として、『夜と霧』(55)のように「大量の遺体が映った映像を見せることはできない」と監督。同様にホロコーストを題材とした『戦場のピアニスト』(02)と『シンドラーのリスト』(93)を挙げ「当時のユダヤ人ゲットーを経験したポランスキーと、そうではないスピルバーグでは描写に違いがあるように思う」と語った。
ここで、客席にいたベルリン国際映画祭フォーラム部門創設者で映画史家のウルリッヒ・グレゴールさんが手を挙げ、「この作品を観るのは二度目だが、深く感動しました」とコメントを寄せた。
グレゴールさんに「エグジール(Exil)=追放、亡命」というタイトルに込めた意味を訊かれると、監督は「自分の物語に向けたものでもあり、他の人びとに向けたものでもあります」と応じた。カンボジアから逃れてフランスに移住した監督は、「エグジール、すなわち生まれた地から切り離されることの苦しみは癒やし難く、どこにいても、どこにもいないという感覚に苛まれることになる」と語った。
「最近は特にシリア難民について多くの報道がされていますが、難民は何世紀も前から絶えず生じています。戦争難民以外に経済的理由による移民もありますが、貧困もまた暴力的で、戦争に近いものといえます。このような運命にある人びと、特に子どもたちに理解してほしいのは、エグジールとは何か、ということ。それに向き合わなければ、自分の全体性を回復することはできないのです」
最後に監督が「作品を上映してくれた東京フィルメックスと、私の友人、市山さんに感謝します」と挨拶すると、会場は大きな拍手に包まれた。
(取材・文:花房佳代、撮影:村田麻由美、吉田留美)