11月20日(月)、有楽町朝日ホールにて東京フィルメックスのジャック・ターナー特集のうちの一本『私はゾンビと歩いた!』が上映された。本作はジャック・ターナー監督がRKO移籍後にプロデューサーのヴァル・リュートンとのコンビで製作した伝説的な怪奇映画。アメリカ議会図書館所蔵の35mmフィルムが上映される貴重な機会ということもあり、会場には熱心な映画ファンが数多くつめかけた。上映後には映画監督の黒沢清さんと篠崎誠さんを迎え、ターナー作品の魅力について縦横無尽に語ってもらった。
まず、市山尚三東京フィルメックス・プログラムディレクターが、両ゲストに本作についての感想を尋ねた。黒沢さんは「ゾンビの存在が、登場人物たちとどう関わっていくのか、そう簡単には観客に理解させない。理解させようとすると嘘になるという信念を感じる。そういった点でショッキングなだけのゾンビ映画とは全く違う。ゾンビというアイディアからこのような物語を紡ぎ出すことに驚嘆する」と本作の印象を述べた。また「ゾンビと男女の複雑な関係性の帰結が、主人公と関係ないところで頂点を迎える。とても感動的だが、何に感動しているのかさっぱりわからない」と、本作の独特な味わいを伝えた。
篠崎さんは「本作の邦題が『生と死の間』や『ブードゥリアン』と呼ばれていた頃からVHSやDVDで何度も観ているが、やはり35mmのフィルムで見ると陶然とした。また、ストーリーの効率性を重視していた40年代に、サイレント的な表現の復活とも言うべき異様なショットをたくさん撮っていたことに驚いた」と印象を語った。撮影はサイレント期から活躍しているJ・ロイ・ハント。「自然の取り込み方やカメラの動き方に、黒沢監督の映画を想起した」という篠崎さんのコメントに、黒沢さんは「そんなばかな」と笑いながらも「植物を使った表現が好きな点はたしかに似ているかもしれない」と明かしてくれた。
続いて黒沢さんは「ゾンビマニアではないのですが…」と謙遜しながらも、昔のゾンビ映画を観たことがない観客向けに、ゾンビ映画の変遷を次のように語ってくれた。「最初に映画の中にゾンビが登場したのは、ベラ・ルゴシ主演の『恐怖城(原題White Zombie)』(1932)。1920年代の末、 冒険家のウィリアム・シーブルックがハイチに渡り、その民間信仰であるブードゥー教の信者に取材して、ゾンビの存在を明らかにした著書「The Magic Island」の影響のもと作られた。初期ゾンビの特徴は目を見開いており、呪術師により操られる。それまで死者が歩く代表的な怪物としてはフランケンシュタインとミイラ男がいたが、瞳の輝きを消すために特殊メイクや美術で目を隠しがちであった。ゾンビはそれとは真逆の発想で、まばたきしないことにより死者を表現した。本作やジョン・ギリング監督『吸血ゾンビ』(1966)もその流れを汲んだゾンビとなっている。その後、ジョージ・A・ロメロ監督が『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)で、死後血まみれでよみがえり、繁殖性のあるリビングデッドと呼ばれる新しいゾンビの造形を作った」
この黒沢さんの説明を受け、篠崎さんは「『吸血ゾンビ』のゾンビは目を見開いているが、黒目の部分は非常に小さい」と分析し、「ヒッチコックの『サイコ』(1960)もそうだが、いかに瞳孔を反応させないか、というのが屍体の表現として重要となっている」とコメント。「そういう意味で黒沢監督の『リアル 完全なる首長竜の日』(2013)に出てくるフィロソフィカルゾンビも初期ゾンビの系譜に連なっている」と語った。
ここで、話題はターナーの他作品に。篠崎さんは他の代表的なホラー作品として、RKO時代にヴァル・リュートンと組んだ『キャットピープル』(1942)、『レオパルドマン 豹男』(1943)をはじめ、『悪魔の呪い』(1957)などを挙げ、「ホラー以外にも『過去を逃れて』(1947)や『夕暮れのとき』(1957)などのフィルム・ノワール、西部劇や海洋冒険映画、コメディに至るまで幅広いジャンルを監督している」とフィルモグラフィーの豊かさに触れた。黒沢さんは最近DVDで観た『インディアン渓谷』(1946)が印象に残っており「西部劇でこんな物語の語り方がありうるのか」と衝撃を受けたのだそう。ここで黒沢さんは自身のフィルム・ノワールの定義について「一つ一つのシーンは分かり易いが、組み合わせが複雑で、一つの流れになると巨大な謎めいたものに人々が動かされる。そして、最後に何かが解決したように感じるが、謎自体はわからないまま終わるもの」と説明し、『インディアナ渓谷』『過去を逃れて』『私はゾンビと歩いた!』の物語の語り口は全てフィルム・ノワールだとコメントした。
ここで市山PDが今年の東京フィルメックスで公開されるフィルム・ノワール『サムイの歌』(特別招待)と『氷の下』(コンペディション)を紹介。「2作とも決して分かりやすい作品ではないが、分かったからいいという映画でもない」と話す市山PDに、篠崎さんは「今の映画は、分かりやすさを基準に評価される傾向にあるが、本来映画の面白さは、訳のわからない何かを圧倒的に受け入れてしまうところにあると思う」とコメントした。
この話を受け、話題は『私はゾンビと歩いた!』をめぐる謎の話に。篠崎さんは「冒頭、海沿いを歩いている二人のうち、一方は黒人のゾンビだとして、もう一方は誰だったのだろう。女性ということは分かるが…」と切り出すと、黒沢さんも「たしかに、主人公のフランシス・ディーとも兄弟の母のエディス・バレットとも見える」と応じた。さらに篠崎さんは「冒頭のモノローグが主人公で始まるのは分かるが、最後のナレーションは一体誰だったのか」と問いかけ、ターナーの呪術にかかり、夢を見ているような感覚になると明かした。黒沢さんも「なぜ、男女が黒人のゾンビに追われながら海に入っていくシーンがあれほどまでに、感動的なのか分からない」とコメント、一つ言えるのは「ターナー作品では、わかりやすい白人社会の横に、人智を超えた異質の風土が置かれ、相容れないけど共存している設定が多い」と分析し、その不思議な魅力を語った。また篠崎さんは、この作品が15万ドルの低予算で、RKOホラーの基準である75分よりさらに短い68分で撮られてることに触れ「数多の謎は残しつつも、複雑な人間関係を語り、画面の連鎖そのもので感動させる」ターナー監督の手腕を讃えた。また本作は、戦時下のアメリカで大ヒットしている。黒沢さんが「当時の観客がこの映画の語り方や楽しみ方を許容する想像力があったことに驚く」と語る通り、アメリカ映画の懐の深さを示すものと言えるだろう。
市山PDが本作とイタリアン・ホラーとの類似が気になり調べたところ、ターナーが後期作品『マラソンの戦い』(1960)で、後にイタリアン・ホラーの映画黄金時代を築く監督となるマリオ・バーヴァをカメラマンに迎えていた意外な事実が明らかになったという。これを受け篠崎さんは「たしかに、愛するものを殺すといったテーマであったり、闇とか空間の使い方、音だけが先行して視線を導いていく手法、特に船に乗った瞬間に低く風の音が入っている不穏な感じなど、五感に染み渡ってくる感じが60年代のマリオ・バーヴァに繋がっている」とコメント。また脚本のカート・シオドマク(兄は監督のロバート・シオドマク)や編集のマーク・ロブソンも後に監督となったことにも言及した。マーク・ロブソンはヴァル・リュートンがプロデュースした『The Seventh Victim(原題)』 (1943) (日本未DVD化)の監督を務めており、黒沢さんも篠崎さんも「傑作だ」と口を揃えた。
特集上映のもう一本『夕暮れのとき』は、雪山で銀行強盗に遭遇した男が、知らぬ間に犯罪に巻き込まれるフィルム・ノワール。日本ではWOWOWで放送されたのみで、DVD化されておらず劇場でもめったに上映されない貴重な一本だ。黒沢さんは本作の見どころを「とても高度に作られた純粋な娯楽映画。シンプルな仕掛けだが、物語がどこに進むのか目が離せない」と語り、役者陣について「ヒロインのアン・バンクロフトは典型的な美人ではないが、犯罪映画のヒロインにぴったり」と締めくくった。
最後に、市山PDより、映画評論家のクリス・フジワラさんのターナーに関する著作「Nightfall」(『夕暮れのとき』の原題)の翻訳が現在進行中との情報が伝えられた。クリス・フジワラさんは、19日に開催された国際批評フォーラム「映画批評の現在、そして未来へ」にも登壇している。
黒沢清監督作品『予兆 散歩する侵略者』は現在、新宿ピカデリー他で公開中。
(取材・文:高橋直也、撮影:明田川志保、吉田留美)