映画字幕翻訳セミナー
TOKYO FILMeX ( 2014年11月19日 16:32)
11月13日、三菱地所が運営する、住まいの総合窓口「三菱地所のレジデンス ラウンジ」にて「映画字幕翻訳セミナー」が開催された。東京フィルメックスでは、2006年より三菱地所と共催で映画に関するイベントを企画してきた。なかでも、字幕翻訳セミナーは外国映画を見るのに欠かせない字幕翻訳を体験できるとあって人気のイベントで、今回も定員を上回る申込があった。進行役を務めるのは字幕文化研究会、翻訳家の樋口裕子さん。ゲスト講師は字幕翻訳家・映画評論家の齋藤敦子さん。
字幕翻訳セミナーは、樋口さんの提案で2009年に開始。今年で4回目の登壇となる齋藤さんは、参加者から「辛口で話が面白い」と評判を呼び、続投を望む声が多く寄せられたという。2人はフィルメックスとの関わりも深く、今年は樋口さんはコンペティション部門の『シャドウデイズ』、齋藤さんは『彼女のそばで』『プリンス』の字幕翻訳を手掛けている。今回のイベントでは『彼女のそばで』の制作途中の素材を使って字幕翻訳の演習を行う。映画祭で実際に上映される映画の冒頭を一足先に見られる上、齋藤さんが翻訳する際に読み取るべきポイントを丁寧に解説してくれる。樋口さんは「こんなことをやれるのは東京フィルメックスしかない」と絶賛した。
字幕制作の流れは、外国の製作会社から映像素材と台詞台本を受け取った後、映像を確認し、台本の台詞を区切って番号を振る「ハコ書き」、台詞の長さを計る「スポッティングリスト」の作成、映像に字幕データを載せる「仮ミックス」を経て、最終確認のための「初号試写」へと進む。特にハコ書きは「翻訳前の準備として非常に大事」と齋藤さんは説明する。台詞の区切り方が悪いと翻訳がしづらいのだという。
また、翻訳者が作業をする素材は音や画像が鮮明ではないことも多く、試写や上映の段階でわかる事実もあるという。齋藤さんが字幕を担当し、2010年にフィルメックスで上映したアピチャッポン監督の『ブンミおじさんの森』にいたっては、ブンミおじさんのお腹に針を刺して透析をするシーンがあるが、初号試写の段階でもどこに刺しているかわからず、東京国際フォーラムで上映した際にやっと見えたという苦労もあったそうだ。
字幕を翻訳する上での心構えについて、「映画は字幕によって良くなることはあり得ないけれど、悪くなることはある」と樋口さんが切り出すと、「映画の足を引っ張らないこと」が最も大切だと齋藤さんは強調する。字幕は言語の全く違う観客に見てもらうもの。なるべく助けになるように努めるが、出しゃばってはいけない。「映画の面白さや監督の意図がストレートに伝わるように補助をする」ことが字幕の役割だという。
観客は字幕を読むためではなく、映画を楽しむためにお金を払っている。そのため、「字幕を読ませてはいけない」(齋藤さん)ときっぱり。「翻訳が良かった」と思われる字幕ではなく、「映画が面白かった」と思われる字幕が良い字幕なのだという。字幕を意識させることなく、映画の流れを止めないことが大事なのだと語った。
演習の課題は、アサフ・コルマン監督の『彼女のそばで』(イスラエル)。障がいを持つ妹と、姉の関係性を描いた作品で、「見終わった後に考え込んでしまった」(齋藤さん)という社会派の映画。姉の名前はChelliという。英語読みでは「シェリ」だが、現地読みの「ヘリ」と訳すのが日本語字幕の慣習だ。外国ではそのままアルファベットで表記できることが多いため、こうした問題はあまりない。読み方はネットで音声でも検索できるが、それをどのようにカタカナで表すかも悩みどころなのだという。
「人名を訳すのは非常に難しい」と中国語の翻訳者である樋口さんも口を揃える。中国の人名を訳すときは、漢字にルビを振る方法と、カタカナで表記する方法がある。最近は「ルビはうるさい」と言われることも多く、カタカナ表記が主流だという。樋口さんは「せっかく中国と共通する漢字があるのに、カタカナを使うのは本当は嫌」だと語る。「カタカナは字数をとるし、読みづらいよね」と齋藤さんもうなずいた。
簡単なようで一番難しい、という冒頭部分には色々な情報が詰まっており、さりげなく説明しないといけないことも多い。「重要な情報は何か、をつかむのが大事」だと齋藤さんは言い、仮ミックスを見ながら順に解説を行った。
最初のシーンで注目してほしいのは、主人公はヘリという女性で、学校の用務員として働いていること。そして、誰かから携帯に電話がかかってきているのに取らないことだ。 「このシーンは印象的です」と齋藤さんが指し示すのは、主人公ヘリが仕事先から自宅へ帰る場面。「画面の奥に海があり、市街地がある。しかし、彼女は画面の手前に向かって歩いてきています。町からは相当遠く、辺鄙な場所に家があるのでしょう」なぜヘリはバスに乗らないのだろうか。齋藤さんの頭には様々なチェックポイントが浮かぶ。「監督が選ぶカットに、無駄なカットというのはないですよね」と樋口さん。「ないです。ちゃんと分かって見ていないと字幕が間違ってしまう」と齋藤さんも言う。
齋藤さんが「訳を悩んだ」のは、シフラという年配の女性がヘリの自宅の前で待ち構え、ヘリを責め立てる場面。この女性がどういう立場の人物か、2人の関係性については、映画が進むにつれて明らかになるが、「戸口で待っているということは、鍵を持っていないということで、家族ではありません。ヘリが邪険にしていることから、招かれざる客なのだとわかります」と説明する。
英語の台本では、「Did you leave her alone? For how long is she like that?」となっているが、齋藤さんは「妹を家に置いて出かけたの?」と訳した。
ここで大事なことは「her」「she」の訳。妹の姿はまだ画面には映っておらず、観客は誰かが家の中にいることを、ここで初めて知ることになる。
「〝彼女〟ではなく〝妹〟と訳した理由は」と樋口さんに問われると、「シフラは2人が姉妹だと知っているので、〝彼女〟とは呼ばないでしょう。それに、誰ってはっきり分かった方が見ている人は落ち着きます」と齋藤さん。ただし、どちらが姉で妹なのかは迷ったという。手持ちの資料ではわからず、ネットのIMDb(インターネットムービーデータベース)でヘリは27歳、Gabby(ガビ)は24歳と判明した。
「本当は翻訳者としてはちょっと訳しすぎですよね。でも、この超訳は許してね」と齋藤さんは言うが、「どこまで訳していいのかっていつもものすごく迷います」と樋口さんも話す。後の展開のために渡さなければならない情報は字幕に出す必要があるが、少しずつストーリーが明らかになるように情報を出さなければならない。字幕で説明をした方が親切な場合もあれば、監督がわざと説明していないこともあるので、それを尊重してあえて触れないでおくこともあるそうだ。
この場面でもう一つ重要なことは、シフラはヘリが働いていることを知らないので、「出かけたの」とアバウトな訳にしていると齋藤さんは話す。
このシーンに関して参加者からは、「ヘリは戸を開けて家に入った瞬間、〝何事もなかった〟と言っていますよね。あれはすぐに家の中の状況が分かったのでしょうか。それともシフラを家に入れたくないのでしょうか。その区別は訳にどうやって出すのでしょう」と質問があった。齋藤さんは「家に入れたくないんです。だから〝早く帰ってほしい〟という気持ちが訳に出ていないといけない。難しいところです。とても良い質問ですね」と感心した様子。「監督は家の中を全く見せないわけですよね」と問いかける参加者に、齋藤さんは「そうですね。台詞の場合、字幕翻訳者が勝手に変えるわけにはいきません。ここは演技でわかってもらう場面だと思います」と答えた。
また、吹替と字幕の違いについて尋ねられると、「吹替の方が字数がたくさん入るんです。そして、登場人物の口調や、吹替を務める方の個性に合った訳をすることが求められます。吹替と字幕の両方をやる人もいますが、長く訳す人は字幕向きではないと思います」と齋藤さんは説明した。
参加者からは次々と質問の手が挙がったが、時間が迫り、続きは懇親会で行われることに。懇親会では熱心な参加者に囲まれ、さらに熱いやり取りをかわすお二人の姿が見られた。様々なエピソードやオフレコも飛び出し、非常に密度の濃いイベントとなった。
(取材・文:宇野由希子、撮影:白畑留美)
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