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国際批評フォーラム「映画批評の現在、そして未来へ」

11月19日(日)、有楽町朝日ホールスクエアBにて、国際批評フォーラム「映画批評の現在、そして未来へ」が開催され、映画評論家のジャン=ミッシェル・フロドンさんによる基調講演、続いて、パネルディスカッションが行われた。パネルディスカッションにはフロドンさんのほか、第18回東京フィルメックスの審査員を務めている映画評論家のクラレンス・ツィさん、ジャック・ターナー特集の解説を手がけた映画評論家のクリス・フジワラさん、字幕翻訳者としてフィルメックスとも縁の深い映画評論家の齋藤敦子さんが登壇した。司会は、市山尚三東京フィルメックスプログラム・ディレクター。

フロドンさんは、「カイエ・デュ・シネマ」編集長を経て、現在はフリーランスの批評家として、自身のウェブサイトからの発信を含めた積極的な批評活動を行っている。講演に先立ち、フロドンさんが「東京へ来られたこと、フィルメックスに参加できたこと、そして、ここにお集まりいただいた方々とディスカッションができることの三重の喜びを得て、感謝を述べたい」と挨拶。今回の基調講演では、映画批評を語るにあたり,一般に認識されている映画批評の意味・目的として誤っている点を取り上げ、その後、デジタル革命が現在及び将来の映画批評に及ぼす影響について明らかにしたいと述べた。

(講演の骨子は以下のとおり)

フロドンさんは前置きとして、「映画、そして映画批評を語るとき、映画については特定のジャンルにこだわることなく映画全般を、映画批評については特定の雑誌や媒体ではなく、批評全体を語りたい」と述べ、「映画、そして映画批評に未来があるとすれば、映画については、質や芸術性で分け隔てることなく総合的にとらえ、映画批評も同様に、映画に対して、そして観客や読者に対して分け隔てることなく語りかけるべきだ」と続けた。これは、よく知られているアンドレ・バザンによる映画の「不純さ(impurity)」という概念に通ずるものがあり、フロドンさん自身も、日刊紙、週刊誌、月刊誌、オンライン、ティーンエージャー向け雑誌、コミック誌など多岐なメディアを駆使して活動し、様々な観客・読者と映画について共有しているという。

本題に入り、フロドンさんが語ったのは、一般に認識されている映画批評における4つの誤解について。セールス、興行、ジャーナリズム、学究と関連し、各当事者の正当な目的のため、映画批評に対する認識が歪められているのだという。

フロドンさんが第一の誤解として挙げたのは、映画批評が広告の補助的役割としてみられている点。映画批評は作品の広告の一助として求められているが、作品の商業的成功は映画批評家の存在理由とはならないという。経済効果データから、映画を観た理由として批評が良いことを挙げた観客はわずか7%であった事実を引き合いに出し、観客にとって映画批評は優先順位が低いことを示した。

ただし、観客が映画を観るときに最も重視するのは口コミであり、潤沢な資金がなくマーケティングができない小作品を後押しするための批評家の役割は侮れないとも。つまり、批評家の強力な後押しにより無名の若手作家とその作品の可視性を高め、彼らの継続的な制作活動の環境を整えることができた例は、過去にいくつも存在する。映画批評は、そうした象徴的な環境、価値を作り出すことができるというのだ。また、批評家の活動が公共政策に影響を与え、文化的、芸術的支援を得られる機会が将来的に増える可能性もあるのではないかという。

次に、第二の誤解として挙げたのは、映画批評が消費者のガイドのように扱われている点。実際に映画批評は、星取り表、ハートマーク、ニコニコマークなどのアイコンで作品が格付けされている。作品に価値があるかどうかは、既存のレファレンス(参考基準)に基づくべきだが、既存のレファレンスに定義がなく、つまり、良い作品とは何なのか、良い作品とはこうあるべきだというものがなく、アイコンで作品を格付けすることに意味がないという。

続いて、第三の誤解として挙げたのは、映画批評がジャーナリズムと混同されている点。ジャーナリストはジャーナリズムのアプローチを用いるが、映画批評で問われるのは作品そのものがどうかということだけである。映画が扱う題材は批評の一部となるが、批評が題材そのものの重要性を語るものではない。歴史的、社会的に重要な題材が、作品として重要かどうかは別問題だという。

最後に、第四の誤解として挙げたのは、映画批評が教育機関における学究活動と混同されている点。大学などで映画の研究が盛んに行われ多くの知見が集積されているが、学究活動と映画批評の決定的な違いは、映画との関係性であるという。映画批評では、映画を生きものとして扱い、映画と有機的な関係性を有している一方、学究活動では、学者が学問的対象となった映画をコントロールしているという。

このように、映画批評における誤解を指摘した上で、フロドンさんは映画批評についてさらに深い見地を示した。映画批評家は、未完成のオブジェクトに向き合ったときに芸術の可能性を見つけたならば、自身の持つ芸術形態である文学、それは文学とは言い切れない小さなものだが、そうした言葉を通じて伝えることができるという。芸術の可能性を指摘することは、批評家の特権でもあるが、映画批評は何らかの審判をくだすものではないとも。

一般に、芸術の批評は、1759年にディドロが文学を通じて美術批評を行ったことに始まるが、映画批評では、1950年代にゴダールやヌーヴェルヴァーグの監督たちがカイエ・デュ・シネマに映画批評を投稿し、映画的な言葉でディスカッションを行った。フロドンさんは、書くことが感情や思考を共有するための重要なツールとして生き続けており、新しいデジタル技術の登場によって、映画批評に大きな可能性が生まれたと説明。つまり、映画批評に対して多くのアクセスが提供され、映画批評はオンライン上で拡大している。インターネットによって批評は滅びると言われたが、むしろ栄えているという。

最後にフロドンさんは、インターネットへの対応について触れた。インターネットに接続すれば、誰もが古い映画から今朝出来上がった映画まで見ることができる時代になり、膨大な量の作品が提供される可能性がある。そのため、映画祭関係者、教育者、映画批評家には、市場が強力に推すもの以外の作品に対する正しい評価を見出す責務があるという。「映画批評には、将来があり、責任があり、広義的には文明という点においてなすべきことはたくさんある」と締めくくった。


引き続き、パネリストが登壇し、ディスカッションが行われた。

市山:フロドンさんの基調講演について、パネリストのみなさまからご意見をうかがいたいと思います。

フジワラ:映画批評とジャーナリズムとの違いについて、ジャーナリズムは現実の問題を扱い、映画批評は映画の芸術性を扱うべきだとおっしゃいました。映画批評家の役割とは、アート作品が日の目をみるような形で、個々の作品を超越して、社会経済全体の状況を批判すべきではないでしょうか。その場合、映画批評にはより大きな関与が必要で、ジャーナリズムへの批判以上のものが必要ではないでしょうか。

ツィ:映画批評とジャーナリズムの議論において、果たして、映画をアート作品としてみるのか、社会的生産物としてみるのかということは、互いに相反することなのでしょうか。この2つは別個のものでしょうか。それとも境界は曖昧なのでしょうか。

フロドン:お二人とも、私の意見を明確にしてくださってありがとうございます。映画批評は、決して現実を無視するものではありません。現実には、日常的に政治、経済、検閲、ジェンダーなどさまざまな問題があります。映画批評は、その作品の美しさを、ストーリー、事実としての要素、背景、配役などすべてを合わせて有機的に理解するものだと思います。映画には倫理的、社会的、政治的な作用があり、映画は今生きている現実の世界とつながっていて、遠い世界から傍観するものではありません。ただ、ジャーナリズムのアプローチに問題があると言ったのは、映画が何について語っているのかということと、映画そのものが何であるのかということは別のことだからです。クリスさんがご指摘された、特定の映画を越えてより広範なものを対象とすべきということについて、映画批評家は一作品ごとに批評を書くわけですが、私自身は映画との関係性を重視し、できるだけオープンな映画の定義を取り込んで読者と共有したいと思います。

ツィ:映画批評家の仕事はとてもユニークだと言えると思います。映画批評家は一般大衆と違って、多くの作品を観ているためアドバンテージがあります。それは何らかの批評の文脈の中でということですが、ある作品の核心に触れると同時に多数の作品で構成される網(ネットワーク)のどこにあるかということを語るということです。

フロドン:映画批評家が多くの作品を観ているから言って、必ずしもアドバンテージがあるとは限りません。観客の代表ではないということは心に留めておきましょう。映画批評家は多くの知識がありますが、それを傲慢ではなく謙虚な方法で読者と共有することができると思います。決して上から目線ではなく。

ツィ:もちろん、映画批評家が思考を決定づけたり、判断を下したりするものではありません。ただ、オプションを提供することができると思います。異なる視点、大所高所の見方など。

フジワラ:私が批評を書くときは、批評を書きたい人に語りかけるように書いています。批評家だけでなく、映画を観た人は批評ができるのだということを伝えられるように書きたいと思っています。

齋藤:私は日本映画ペンクラブに参加しており、国際批評家連盟の総会に出席しています。そこで話題になっているのは、果たして映画批評家は生き残れるのかということです。若い人はどのように映画評論を仕事にするかという道筋が立てられていないと思います。そのあたりは、どのようにお考えですか。

フロドン:若い批評家を起用し、専門家として育てたいと考えていますが、その方法についての答えはありません。ただ、私が考えるオプションは、若い人たちに可視性、注目をオンラインで提供するということです。若い人を専門家として起用して、チャンスを与えるのです。表現する世界は数多くあると思います。

齋藤:フランスの新聞では、映画祭期間中、連日映画の批評に大きく紙面を割いていますが、日本の新聞ではそういうことをしません。会場にいらっしゃる新聞記者の方にその理由にお訊ねしたいのですが。

記者(朝日新聞):映画を担当して思うのは、日本では映画をアートとしての作品というよりも、娯楽とアートの両面で位置付ける傾向があります。新作を紹介することはあっても、映画祭期間中にアートとしての作品の批評を出そうという環境にはなっていません。朝日新聞では、昨年から、オンラインで東京国際映画祭の期間中に星取表と短評を掲載しています。これを紙面でも実現できればいいと思いますが、まだ議論にもなっていません。

フジワラ:フロドンさんが仰っておられたように、映画は総合的にとらえるべきで、映画を娯楽とアートに区別するべきではないと考えます。ある評論で、映画には、大規模なマーケティングでメディアを制圧するような主流作品と小さな非主流作品の相対する2つのものがあると書かれていました。それには、ローカルとグローバルという表現で書かれていましたが。現実として作品の区別はありますが、映画批評家の責務としては、小作品を支持するべきでしょう。

フロドン:実際には主流、非主流の作品があるわけですが、分けて考えるのは危険だと思います。それは戦略的に誤っていると思います。主流は主流、非主流は非主流と分けてしまうことは、シネマに分裂があるということを想定した意見だからです。市山さんとも話をしているのですが、映画祭は、映画制作の前線で戦っている人たちとの橋渡しの役割を果たそうとしています。シネマコミュニティの分裂はシネマにとって死をもたらすと思います。

ツィ:戦略という意味では、映画批評家が仕事をするときは戦略的に仕事をすることも必要だと思います。私自身は、独立系作品も主流映画も共産党のプロパガンダ映画も観ます。批評を書くときには、どうしてこの映画が存在するのか、存在の意義がどこにあるのか、批評家として、また世界市民としてどう理解するのか、そういうところに関心を払っています。中国における映画批評ですが、例えば、香港には映画の専門雑誌はなく、文化雑誌で映画を紹介する程度です。ウェブサイトで作品に対するコメントを載せることはできますが、ほとんどが星取りで格付けされ、ディスカッションはそうした評価に基づいて行われている残念な状況です。それでも、希望の灯はあると思います。

フロドン:マスとマイノリティについてですが、マイノリティだから意味がないというわけではありません。中国でも、マイノリティの中で多少のダイナミズムが起きていると思います。批評家は小作品のために立ち上がるべきだと仰っておられましたが、私たちはNGOでも赤十字でもありません。最終的には、特定の作品について私自身がどう思うかということが重要だと思います。

フジワラ:フランスの状況はわかりませんが、インターネット上には膨大な書き込みがあり、その多くは粗悪なものです。良い映画批評が書けないということではないと思います。そうした点で、私はインターネットに対して皮肉な見方をしています。

フロドン:インターネットに期待していることはまだ起きておらず、発展段階だと思います。しかし、そうした粗悪な投稿はインターネットが登場する前からありました。今後、一般の人たちから、より良い投稿があることを期待したいと思います。

フジワラ:フロドンさんも仰っておられたように、映画批評は文学だと考えています。文学の価値を芸術形態としてどのように維持、発展させていくのかということにも関わってくると思います。

齋藤:日本の場合、年間1000本、製作、配給されていると言われています。その中から、素晴らしい作品をどのように探せばいいのか、そして、発見したとしても、媒体がどれだけのスペースを割いて紹介してくれるのか、とても大きな問題です。たとえインターネットで素晴らしい評論が書けたとしても、読んでもらえるのかということも問題です。そうした面で、映画祭という場所で働きかけができるのではないかと思いますが、市山さんのお考えをお聞かせください。

市山:ありがとうございます。今年のフィルメックスでは、初めての試みとなりますが、観客から批評を募集し、最終日に合評会を行います。ささやかな試みですが、こうしたことがつながっていくと良いと思います。


質疑応答は以下のとおり。

Q:インターネットに作品の紹介を書こうとすると、映像素材の権利に絡み、高額な素材使用料を要求されたり、配給会社によっては文章の内容を確認してからではないと素材を貸せないと言われたりすることがあり、苦肉の策としてイラストなどで置き換えることもあります。映画を語るときに素材は重要だと思いますが、どのように対応されているのでしょうか。

A:素材の権利については基本的にどこでも同じだと思いますが、オンラインイズムは曖昧で、例えば、トレーラーからのキャプチャやスチル写真を使用しています。ご懸念について理解していますが、もう少しクリエイティブに取り組むべきでしょう。簡単なことではありませんが、誰も完全な自由を手にしているわけではありません。インターネットを初め、新しい手法を駆使できると思います。最も危険なことは孤立してしまうことだと思います。先ほど触れた映画祭ですが、映画祭は観客との出会いの場です。世界中でさまざまな映画祭が毎日のように開催されていますが、映画祭も映画批評もオンラインデバイスなどを駆使して、ただ生き残るだけではなく、前進していくべきだと思います。

2時間に及んだ、基調講演とパネルディスカッション。場内は満席で、映画批評に対する関心の高さがうかがわれた。東京フィルメックスでは、この基調講演及びパネルディスカッションを受けて、映画祭期間中に批評を募集し、11月26日(日)、有楽町朝日ホールスクエアBにて批評のフィードバックとして合評会を開催予定である。

(取材・文:海野由子、撮影: 明田川志保)


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