『ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』Q&A
TOKYO FILMeX ( 2011年11月26日 21:30)
11月26日、有楽町朝日ホールにて、ニコラス・レイ監督の『ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』の上映が行われた。2011年はレイ監督の生誕100年にあたり、本作がデジタル復元され、今年のヴェネチア国際映画祭でワールド・プレミア上映された。日本で未公開であったその作品がいち早く上映されるとあって、心待ちにしていたファンや映画関係者から質問とともに感謝、感激の声が相次いだ。
盛大な拍手で迎えられ上映後に登壇したのは、レイ監督の夫人であり、ニコラス・レイ財団代表のスーザン・レイさん。「あたたかい反応をいただいて、東京、そして日本の皆様に私はすっかり恋をしてしまいました。この作品は、お金を払ってまで観たくないと言われた時代もありました。ですから今皆さんの反応を見て、この生誕100年の記念の年に上映が実現したことを大変嬉しく思います」と挨拶すると、会場から拍手が沸き起こった。
この作品は、1973年のカンヌ国際映画祭で上映されたが、その後ほとんど観ることができなかった。今年、1976年の時点で編集されていたバージョンがデジタル復元された経緯について、司会の市山尚三プログラム・ディレクターが、スーザンさんに説明を求めた。「エンドクレジットにあったように、大変多くのスポンサーや協力者を得て復元が実現した」とスーザンさん。本作のスタッフは映画を学び始めたばかりの学生だったため、復元にあたっては、作品が持っている手作り感を尊重しながら修復したいという考えがあったそうだ。よって、映像を再編集せず、年月によってできた汚れやマルチ画面において白く飛んでしまっている部分は取り除いたが、スプライス(※コマとコマ、二つのフィルム断片を繋ぐこと)の跡やフィルムにあった鉛筆のしるしは残したという。スーザンさんは、映像よりも音響の修復に苦心したと続けた。当時カンヌ映画祭で上映されたバージョンのナレーションは、劇中髭を剃っていた学生(トム・ファレル)の声であったが、映画祭の後レイ監督自身が録音していた声があり、今回の復元バージョンではレイ監督の声と差し替えた。また元々あった4分の1インチテープの音源に立ち戻り、76年バージョンで消えてしまった音や明晰でなかった音を差し替えたそうだ。
続いて、会場からの質問を受け付けた。一番手は映画監督の舩橋淳さん。「レイ監督のどのような作品でも、小さく画面の隅に写っているキャラクターでさえも演技が悪いと思ったことがない。彼の演出で印象に残っているものがあったら教えてほしい」
スーザンさんは、『あまり期待するな』でレイ監督自身が演出について語る場面があるので、私の印象ですが、と前置きし、「ニック(レイ監督のこと)は初対面でも、その人の心の中や本質を瞬時に見抜き、引き出す能力のある人だった。彼の演出はルールやノウハウが決まっているわけでなく、まったく本能的。どの瞬間にどの文脈で、どう行動をとれば俳優が本質を現すか直感的に感じていた」と語った。
また登場するジャン=リュック・ゴダール監督について訊かれると、当時のエピソードを披露。本作が1980年のロッテルダム国際映画祭で上映された際、事務局にいたスーザンさんのもとをゴダール監督が訪れ、そっと20クローネ(現在の5米ドル程度)を渡してくれたそう。それが、レイ監督が亡くなった後初めて受け取った制作資金であったため、大切にとっておいたそうだ。
続いての質問者は、今回の東京フィルメックスのコンペティション部門で『無人地帯』が上映された、藤原敏史監督。作品の最初の部分では、アメリカで1960年代に盛り上がった政治運動が映し出されたが、次第に対象は社会から切り離された孤独な若者たちに移っていく。また最後に、ニコラス・レイ監督が言う台詞「Take care of each other. It's your only chance for survival, and the rest will swing. (お互いを気遣い合いましょう。それが生存の秘訣。あとは流れに任せていれば大丈夫さ)」という、助け合って生きることを訴えたメッセージ。この二つのことは今の世界について全く同じことが言える気がするがどう考えるか、という質問に、スーザンさんは、レイ監督は70年代にこういう考え方をしていた、と答えた。「60年代にあった政治的な時代から70年代に入ると、若い人たちは引きこもるようになり、自分自身や個人のイメージを探索していく時代になっていった。それは暴動と同じくらい危険だと話していた」。「私が若かった60年代後半はデモの時代だったが、最後まで見届けることができなかったという思いがある」とスーザンさんは続けた。「70年代テロリズムをテーマに採り上げて上映することが可能である今において、今作が上映されるちょうど良いタイミングなのではないでしょうか。今こそ、彼の作品が観られる時代が来ました」。グローバリズムの経済が世界を支配する一方で、今は「ウォール街を占拠せよ(Occupy Wall Street)」(※今年9月にニューヨークのウォール街で発生した)のように、世界中で自然発生的にデモのうねりが起こっている。今作を制作した時代に始まった現象が、今一つの終着点に辿り着こうとしているのではないか、とスーザンさんは締めくくった。
ニコラス・レイ監督についての著書『わたしは邪魔された―ニコラス・レイ映画講義録』(2001)について、「スーザンさんは本の中で、レイ監督が『北京の55日』(63)の後でもう二度と映画が撮れないのではないかと悪夢を見続けたと書かれていた。レイ監督はニューヨーク州立大学の講師として教える立場になって、自分で映画制作ができないことのジレンマはなかったのか」と質問が挙がった。スーザンさんは、当時レイ監督といろいろ話し合い、『北京の55日』を制作する中で生まれた「もう映画を作れないかもしれない」という思いを映し出す映画を作ったらどうかと提案したそうだ。講師については、レイ監督は学生に会う前から、「映画を教えることは映画制作を実践してみることであり、他に方法はない。技術を身に付けるには実際制作に携わる必要がある」と話していたという。
ダイレクト・シネマ(※1960年代からアメリカで優勢であったドキュメンタリー映画のスタイルで、インタビューやナレーションの回避が特徴)とのつながりがあるかどうかの質問には、「私は映画学者ではないためはっきりわかりませんが、レイ監督の仕事は最初から非常に実験性のあるものでした」とスーザンさん。最初に制作した長編映画の中で、ヘリコプターからのアクションショットの撮影を成し遂げたのもレイ監督が初めてであり「初期から尖った映画作りをしていたと思う」。レイ監督は、ニューヨーク州立大学ハーパー・カレッジのケン・ジェイコブスやラリー・ゴットハイムと交流があったから実験的な映画制作方法を身に付けた、と多くの人は思っているが、その当時映画制作に24時間費やしていて他の人の作品を観ている時間はなかったという。「常に時代の精神・環境と心が繋がっていたように思う。心の内部の声に従うという、本質的に実験的な人間だった」とスーザンさんは振り返った。
今後もWOWOWでのニコラス・レイ監督作品の放映や、傑作選DVD-BOXの発売など、監督の他の作品を観る機会がある。Q&Aの中で話題になった、70年代のテロリズムを描いた作品を特集した上映プログラム「鉛の時代 映画のテロリズム」が、11月29日 (火) ~12月18日 (日)に東京日仏学院にて開催される。今回の東京フィルメックスの審査員であるフィリップ・アズーリさんが企画協力されている。ぜひ今回のQ&Aの内容の参考にされたい。
(取材・文:大下由美、撮影:村田まゆ)
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